海浜庭園浜離宮

江戸時代の初期、江戸湾は江戸城に迫り、江戸の海側は日比谷の入江から溜池辺りまで海水が浸していた湿地帯だったそうです。

天正十八(1590)年江戸に入府した徳川家康は、江戸城周辺の開発に取り組みますが、それは山の手側での土木工事で生じた残土を使って日比谷湾を埋め立てる、天下普請と称した宅地造成でした。

外海と違って静かな内海の江戸湾に面した埋立地は、山坂の多い山の手より住み易かったので、その埋立地に屋敷が造成されました。承応三(1654)年に甲府藩主が海を埋め立てて別邸を建てたものが浜離宮恩賜庭園の始まりです。

その後第六代将軍徳川綱豊のときに将軍家の別邸となり、浜御殿と称して大幅な改修が行われ、茶園、火薬所、庭園が整備され、将軍の鷹狩の場にもなり、幕末には、幕府海軍伝習屯所にもなりました。

浜御殿では茶会や鴨猟が行われ、将軍家の行楽と接遇の場所であり、幕末には外国人を招待する場所ともなりました。明治維新後は浜離宮と称して、明治天皇が外国の元首や賓客を接遇した場所でした。

嘗ては将軍家の鴨猟の場だっただけあって、浜離宮恩賜公園の敷地はかなり広大です。庭園の中央には大きな潮入の池があり、池には海の魚が棲息しており、汐の干満で庭の趣が変わります。また、庭園の一部に幕府が使用した鴨猟用の小屋と水路が残されています。

また、その奥には、現在は鴨など野鳥が休息するバードサンクチュアリの池と森が自然林のまま残されています。浜離宮恩賜庭園のように海水を庭園内の池に取り入れる潮入庭園は、戦前まで隅田川沿いに幾つかありましたが、戦後、下町の工場地帯からの排水で隅田川が汚染されたので潮入を停止し、現在残っているのは隅田川河口にある浜離宮恩賜庭園だけです。

浜離宮は、江戸の名残りを今に伝える数少ない庭園です。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『東京の街を歩いてみると』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。