江戸の祭神日枝神社と神田明神

江戸には沢山の神社がありますが、その創建が古く、政治権力との繋がりが深く、多くの江戸町人から親しまれた神社と言えば、日枝神社と神田明神です。

日枝神社は、徳川家康が江戸に入府したとき、江戸城の鎮守として城内に祀った神社であり、日枝神社の祭神は、比叡山の天台宗から生まれた山王神道の山王権現です。

徳川家康の側近として江戸幕府に仕えた天海は天台宗の僧侶でしたから、日枝神社と徳川家は深い関係にありました。江戸城改築の際に日枝神社は江戸城の外に遷座してからは、江戸町人からも厚い信仰を集めた神社です。

神田明神の歴史は日枝神社より遙かに古く、関東における伊勢神宮の御田(神田)を鎮めるために創建された神社です。神田明神の祭神は大黒様、恵比寿様、それに何故か平将門の三柱です。

将門の乱(935年)で敗れた将門の首塚の供養が神田明神で執り行われたので将門も祭神になったのだそうです。朝廷に背いた将門ですが、江戸時代、関東武将として江戸町人の間では人気があり、今では江戸の下町だった神田、日本橋だけでなく、秋葉原、大手町、丸ノ内、築地と下町全域が神田明神の氏子になっています。

日枝神社も神田明神も例大祭は盛大に執り行われ、神輿が江戸城内に入れることを許されている自慢の祭りです。その神輿を将軍が台覧するので天下祭りと呼ばれていました。

日枝神社と神田明神の例大祭には江戸装束を纏った氏子達が山車と神輿で町内を練り歩き、町中で江戸時代を想記するのです。

両神社とも正面の参道から境内に入ると本殿が高台にあるとは気付きませんが、裏参道に回り込むと、そこには急峻な階段があり、神社は断崖の端にあることを知ります。

山の手にある神社仏閣は、大抵高台にありますが、日枝神社も神田明神もその例外ではなく、高い台地が落ち込む縁に建てられているのです。多くの神社仏閣が高台に建てられるのは何故かご存じでしょうか?

神々やご祖先は天上に居られるのだから、祈りを捧げる場所である神社は高台に建てられたのは当然と思っていましたが、違うのだそうです。

数千年前の縄文時代には、祈りの場所は海辺にあったのだそうです。と言いますのは、大昔の日本人は、死んだら魂は海底に行くと信じていたので、祈る場所はご先祖様の居場所に最も近い岬の先端が良いと考えたからです。

今でも岬の先端は聖なる場所と信じられているのはその名残りです。縄文時代には地球の気温が高い期間が長く続き、大量の氷山が溶けて海水面が上昇していたので、海岸線は今よりもずっと高いところにありました。

その時代を縄文海進期と言いますが、その後、地球が寒冷化すると北極、南極に氷山が生まれて海水面が低下し、今までの浜辺が高台になってしまったと言うのです。そう言えば、東京の各地で発見される貝塚は高い丘の上にあります。

例えば縄文時代の芝の「伊皿子貝塚」は三田台地の頂上にありますし、多摩川に近い尾山台の貝塚も高台の住宅地にあります。貝は海辺で採取するので貝塚が山の上にある筈はないのです。

日枝神社も神田明神も江戸時代に創建されたのですが、その土地が昔々は海に突き出た岬であって、そこが聖なる土地と代々言い伝えられていたので、そこに神社を建てたと言う次第です。