浅草寺と浅草神社の祭り

狭義の下町とは江戸城の足許の町を言うのですから、神田と日本橋は江戸の下町ですが、浅草は浅草寺と浅草神社の門前町であって、江戸城から遠く離れていますから城下町とは言えない筈です。

しかし多くの人は浅草は江戸の下町だと思っています。それは東京で江戸情緒を今なお一番色濃く残っているのは浅草だからです。

浅草寺の創建は推古天皇のころ(7世紀初め)と言いますから、関東では江戸城建造より遙かに古く、関東最古の寺として誕生しています。

浅草寺創建の縁起は、漁師の兄弟が隅田川の川底から引き上げた観音像を、屋敷を寺にして祀ったことにあります。

その後、浅草寺は、漁師の兄弟達を祭神とする浅草神社を境内に建立してその功に報いました。

寺院と神社が相互に尊敬し合い、同じ境内で祀り合うという、誠に不思議な因縁の浅草寺と浅草神社ですが、このような神仏混淆の信仰は、奈良時代から寺院に神が祀られ、神社に神宮寺が建立されていましたから、不思議なことではありません。

平安時代(8世紀)には本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が有力になり、中世になって真言宗が両部習合神道を唱え、神仏混淆(しんぶつこんこう)は宗教界に定着します。

しかし明治政府は開国後、神仏分離政策をとりましたので、浅草寺は仏教の寺になり、浅草神社は神道になりました。

それでも、平成十一(1999)年に、浅草寺本尊示現会(ほんぞんじげんえ)が開催された時、浅草神社の御輿が浅草寺の本堂に堂上げされる行事が復活して、浅草の寺社の関係は切っても切れないことを示しています。

浅草寺も浅草神社も信者である江戸町人社会に開かれた寺社でして、そのための年中行事が色々行われています。

本堂では針供養(二月八日)、観音示現会(三月十八日)、ほおずき市(七月上旬)、万霊燈籠供養会(八月十五日)、羽子板市(十二月中旬)などが盛大に催され、多くの信者を集めています。

寺社は聖なるところですが、浅草寺には俗なる面もありました。

江戸時代には浅草寺では毎月の富くじ目当ての参拝者も多く、境内近くには見世物小屋があり、浅草は寺の町と同時に享楽の町でもありました。

清濁併せ呑む、おおらかな気風の町でしたから、浅草の町は江戸町人だけでなく、昔から訪日外国人も訪れています。

明治初期のお雇い外国人ウイリアム・グリフィスは、

「東京の浅草寺は、ロンドンのセント・ポール、パリにとってのノートルダムに当たる」

と書き、外国人は浅草寺に興味を示したと言っています。

また、浅草神社も三社様と呼ばれて親しまれ、例大祭の三社祭(五月中旬)は日本三大祭りの一つとなっています。

三社祭の日には、町内から約百基の御輿がお祓いのため次々と浅草神社に宮入し、その後、狭い仲見世通りを始め、町内を練り歩きます。

三社様の祭神は漁師でしたから、入れ墨した威勢のいい若者が大勢して神輿を担いで荒々しく練り歩きます。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『東京の街を歩いてみると』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。