部屋に入ると、なにもない机上を凝視する稔さんの姿があった。

わたしも疲労困憊だったが、彼の姿は痛ましいの一言だった。落ち窪んだ眼窩にあかぎれた鼻。額に手を当ててなんとか顔を支えている。

稔さんはわたしの姿を認めると、嗄(しわが)れた声で胸の内を打ち明けた。男性があんなにも悲痛な顔をしているのを見たのは、後にも先にもこのときしかない。

「先生。治療を、中止することはできますか」

わたしは非力な自分の掌に視線を落とした。

「俺はもう、裕子の苦しむ姿を見たくない。篠原先生。人工呼吸器を外してやってください」

その言葉は鋭利な刃としてわたしの胸を貫いた。すがるような視線をどうやっても振り切れない。稔さんの気持ちは痛いほど分かった。そうしてあげたい気持ちもある。嘘ではない。

けれどもわたしは白旗を上げられなかった。わたしは悲しいまでに、医師だった。

「稔さん。お気持ちはお察しします。しかしながら裕子さんは生きておられます。今この瞬間も戦っておられます。それはまぎれもなく、稔さんと礼央くんとのかけがえのない日々を取り戻すためです。もういちど、家族でキャンプに行くためです」

幾たびも繰り返された、このやり取り。

人面獣心(じんめんじゅうしん)という言葉は、このときのわたしをよく表している。わたしはどんな巧言令色(こうげんれいしょく)を用いてでも治療を継続させる気でいた。それはもはや立花一家のためではなく、自分の矜持のために成り下がっていた。

「稔さん。主治医として、この話は聞かなかったことにしましょう」

嗚咽をこぼしながら身体を震わせる稔さん。その肩に手を置きながら、わたしは寄り添うふりをした。口では優しい言葉を吐きながら、わたしは真実を告げられなかった。

医療に関わる者なら、全員気づいていたことだろう。裕子さんは、もうまもなく、天国への階段を登ろうとしていた。

「先生。俺のせいなんです。俺が生きていて欲しいって言ったから。ずっとずっと側にいて欲しいって。俺の、俺のせいなんだ」

稔さんは服で涙を拭きながら言葉を絞り出す。わたしは暗闇の淵を覗き込む錯覚に襲われた。そこに息を切らした集中治療室の看護師が飛び込んでくる。

「先生、裕子さんの血圧が下がっています」

緊急事態に、わたしは踵を翻した。

「またあとで」

わたしは稔さんから逃げるようにして相談室を飛びだした。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『門をくぐる』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。