学会開催とクリニックの閉院という二つの難題に直面していたからだ。翌二〇〇八年十月末に沖縄で開かれる日本小児心身医学会を大会長として成功させねばならないと同時に、経営危機でいつ閉院するかという判断を迫られていたのである。厳しい経営環境の中で、妻は日々の外来収入の金銭管理や勤務表をにらんでの給与計算などの仕事を長年やり、疲労困憊していた。

その妻が給与計算のミスをきっかけに閉院を強く迫るようになった。それでものらりくらりと聞き流していた。そこへ銀行員をしている長男から電話が入り、「お父さん、うちはどうして貧乏なの?」と言われた。「お父さんはお金より学問の道を選んだ……」と負け惜しみで答えたものの、仕事柄いろいろ医療機関の経営状況を知る長男からの一言がとどめの一撃となった。私は薬剤師の松田と相談して一年半後の閉院を決意した。

年が明けて二〇〇八年閉院を決意する中、秋の学会開催が刻々と迫っていた。職員は学術大会を前に受付、会計、案内、記録、タイマー係、接遇などの役割分担を引き受け張り切っていた。前年の秋、観光旅行をかねて北海道で開かれた同じ学会に職員一同を連れて行き、学会運営のノウハウを学び、一年かけて準備を重ねていたからだ。

そういう職員に閉院をいつ、どういう風に切り出すか、決断を迫られた。早めに伝えると、気落ちして早期の就職活動を意識して離職し、閉院を逆に早めることにはならないか……。かといって、ギリギリまで黙っていればだました形になり、再就職にも支障をきたすかもしれない。

結局、たとえ早期離職者が出るにしても正直に伝えた方がいいと決断し、学会開催一か月半前の朝のミーティングで一年半後の閉院予定を告げた。スタッフ一同、水を打ったように静まりかえったが、辞めるという人は一人もおらず、学会も成功裡に終えることができた。学会を直前に控えた大事な時期に、なぜ閉院時期を公表したかについても理由があった。

閉院を秘密にしたまま学会準備に奔走させられたと思われたくなかったからだ。結果的にそれでよかったように思う。翌年の秋の日本小児東洋学会沖縄大会(小児科医の漢方医学会)も、閉院半年前でありながらスタッフ全員が協力し無事済ませることができた。以後、待合室の掲示板に閉院を告知。患者さんの転医先への紹介状を出すようにした。

二〇一〇年三月、閉院最後の月を迎えたときは多忙を極めた。閉院と知って多くの患者さんが訪れ、患者さんへの説明と紹介状の作成を診療の合間にやった。閉院後の職員たちの転出先の模索、クリニックの売買交渉、自宅の移転先となる首里末吉の新築造成などを同時並行ですすめた。それに五月には、小児心身医学会の専門医試験も待ち受けていた。

そんな中三月半ば、突然、左耳の難聴が起きた。経過から見てストレス性の突発性難聴が考えられ、即入院治療が必要なことはわかってはいたものの放置せざるを得なかった。以来、左耳の補聴器装着が不可避となった。

最後の日まで、職員達は懸命に働いてくれた。あるナースは、夫が転勤になってからも、わずかな通勤手当で四年もの間六〇km以上も離れた名護から通ってくれた。

五人の心理士の果たした役割も大きかった。発達障害が大きな社会問題となる前から、心理士らは発達障害に積極的に取り組んだことで、私自身、発達障害と向き合う機会に恵まれた。

閉院から十一年(二〇二一年春、現在)、私は今、浦添市の医療機関で発達障害の患者さんらを中心に診療させてもらっている。

閉院危機の迫る中、冒険バイクツアーに応募してアホ・バカ・クレージーのABCで突っ走る院長を見限ることもなく、最後までついてきてくれた職員一同に感謝する。

※本記事は、2020年3月刊行の書籍『爆走小児科医の人生雑記帳』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。