ブレッド湖の雪

湖畔を三十分も歩いたろうか、湖が最も美しく見えるであろう所にそれはあった。

「ホテル・ヴィラ・ブレッド」。

チトー元大統領の別荘で、今は最高級のホテルと聞いた。

門を入ると真っ直ぐな百メートルほどの道の正面に四階建てのこじんまりした建物が見える。大統領の別荘にしては質素な外観である。

玄関には誰もいない。おそるおそる入ると小さなフロントデスクに若くはない女性が一人電話中だった。

「お茶を飲みたいのですが―」と言うと奥を指さして「どうぞ」と言った。

ティールームにも人影は無く、ボーイらしい青年が出迎えた。はにかみながらも丁重だった。

カプチーノとケーキを注文して、ホッとして部屋を見た。二十席ほどでゆったりとしているけれども、ほとんど装飾はない。

正面の壁に、チトーの肖像画がかかっている。運ばれてきたカプチーノと甘いチョコレートケーキを味わった。

が、私はチトーについて何も知らないことに気付いて、夫に教えを乞うた。

夫はボーイに話しかけて、このホテルの由来などを聞いている。ボーイはチトーの亡くなる二年前に生まれたそうだ。

その時、どやどやと四人の客が入ってきた。お仲間だった。

「やあ、もういらしてたのですか」

「そのケーキ大きいですね。旨そうだな。昼飯になりますね」

「僕らも同じものにしよう」

部屋は急に賑やかになった。時ならぬ雪にはまいったと、口々にスケッチがはかどらないことを嘆いていた。

ひととき、彼等とおしゃべりの後、チトーの肖像画をバックに写真を撮った。

―ちょっと贅沢なティータイムだった。

元共産圏のお国柄、チップはどうかなと夫は迷ったらしいが、ボーイは嬉しそうに「サンキュウ」と受け取った。

外に出てみると雪は止んでいた。すこし暖かくなったようだ。何だかウキウキして湖畔に出た。

雲が切れて陽がさしはじめ、水面から水蒸気が立ち上り、島の教会が影絵の様に揺れている。雪を被った樹木がキラキラと輝き始め、黒い幹とのコントラストが美しい。東の彼方にはユリアアルプスが現れてきた。

「キレイ!」

現実とは思えない風景がそこにあった。絵にも描けない美しさ、とはこんな風景だろうか。

私はすっかり降参してしまった。私の手には負えない。寒さと雪を嘆いたブレッド湖だったけれども、雪だったから印象に残ったブレッド湖になった。

明日はこの旅行のハイライトである、ドブロブニクに向かう。

(平成十六年)