二木さんは、昔から男社会の職場でも、堂々とした人で、自分の意見はきちんと主張し、時には相手が誰であろうと、丁々発止とやりあって来た女性である。

その頃の同じ職場のベテラン男性社員からも「惜しいかな、彼女が男なら、やがて支店長になるよ」と、言われていたほど。

だからと言って、お堅いだけのカチカチな女ではない。

かなり抜けたところもあったし、またユニークな人柄で、面白い所も多々持ち合わせていた。

いまだに皆さんから二木さん、二木さんと親しまれている。それに性格なのか、なかなかの世話好きで、外国からのホームステイなども受け入れているとか。兎も角、我々には有難い存在である。

確か私より四~五年先輩である筈。

私が入社したのは昭和三十六年、直ぐに配属になったのが、日本橋堀留町の一角にあった堀留支店。当時は古ぼけた、銀行独特の建物で厳めしい雰囲気があった。

隣は人形町で、此処には古い寄席があったし、横町に入れば、置屋らしい所から粋な三味線の音も聞こえたりしていた。

堀留界隈(かいわい)は隣の馬喰(ばくろ)(ちょう)と同じで、繊維の問屋が多く、大阪の船場と同じ環境であったらしい。問屋街で聞こえて来る会話には、関西なまりの言葉が多く混じっていた。

社会人としてスタートを切った場所であったから、懐かしい思い出の地である。

当時、私は堀留支店では出納係や預金係、そして貸付係などに配属されて、慣れぬ手つきで記帳などやっていた。

二木さんは預金の窓口で、お客さんの応対に颯爽としていた、その姿が今でも彷彿とされる。

その頃の支店に在籍されていた人々に声を掛けて、懇親の会が毎年開催されているのがこの堀留会である。

現在は藤木さん藤沢さん、そして二木さんが世話役である。藤木さんは熱血漢であったし、世話役にはぴったりだろう。

この会も、ひと頃は五年に一回くらいの開催であったが、五年では永すぎる、と言う事などで毎年開催になったらしい。

〈そうだよな、五年に一回では次の会合に元気で、出席出来るかどうか分からないしな〉

こんな会話も囁かれていたのを耳にした事もあった。

殆どの会員はご多分に漏れず高齢者で、七十を過ぎた私でさえ此処では若手の部類である。

※本記事は、2021年3月刊行の書籍『孫の足音』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。