血液内科医としての過去…

骨髄移植は三段階の手順を踏む。

まず第一段階として、抗がん剤や化学物質の大量投与で患者の骨髄を空っぽにする。それと同時にATL細胞も根こそぎ破壊するのだ。

そして第二段階は、ドナーから得た骨髄を患者に投与して、その中に含まれている造血(ぞうけつ)(かん)細胞(さいぼう)が骨髄で増殖してくれるのを待つ。ATL細胞は初めの処置で死滅しているはずであり、多少の残党がいても免疫応答により駆逐され続けることになる。

最後の第三段階では、移植された造血幹細胞から造られた赤血球や白血球が正常値まで戻り、有害事象がないことを確認して退院となる。そのあとはこれまでの生活を送ってもらいながら定期的に経過観察していく。

骨髄移植と聞くと、人体にメスを入れて派手な機械で骨髄を注入する、阿鼻叫喚(あびきょうかん)な手術場面を想像するかもしれない。だが実際の骨髄移植は、そんな血生臭いものではなく、我々血液内科が骨髄液パックを点滴で投与するという比較的穏やかなものである。

裕子さんは抗がん剤の副作用である嘔吐と下痢に苦しみながらも、なんとか第一段階を突破した。その様子が克明に記録された診療録。そこには患者のバイタルサインや理学所見、血液検査、投薬状況がひとまとめにされ、経時的変化を見逃さないように工夫されている。

これこそ血液内科が内科の王道と呼ばれる所以(ゆえん)であり、頭が良くなければ務まらないと(ほの)めかされる理由とされている。どうか恙無(つつがな)く進んでくれ。わたしはかじかむ手で診療録に記載するたび、そう願ったものだ。

裕子さんが感染症を発症するリスクをすこしでも減らすため、治療は無菌室で行われた。入室するのは稔さんでも制限され、我々医師の入室時も手の消毒と手袋、ガウンの着用が義務づけられた。無菌室では、患者の頭から爪先に向けて一方向に風を流し、感染を予防するために空調が回り続ける。鳴り止まぬ機械音が裕子さんの不安を煽るが、こればかりは慣れていただくしかなかった。

やがて長かった冬は雪解け、桜のつぼみが綻び始める。

スーツ姿がまだ初々しい医学部・看護学部の新入生を散見するようになった頃。裕子さんの血液中の血球数が基準値を下回った。治療は第二段階へと移行していく。その日、部屋にドナーから採取した骨髄が運び込まれた。ラベルの貼られた点滴袋はワインレッドの輝きをしていた。通常の輸液製剤となんら変わらないように見えるが、これこそが正真正銘の骨髄液だ。透明な管が鮮やかな赤色に変わっていく。血液内科医全員が有事の際に備えて裕子さんのベッドを取り囲む。

彼女の表情は強ばっていた。皮膚の掻痒感や呼吸困難感がないことを十五分、三〇分、一時間と確認して骨髄をすべて投与する。問題なく終了。あとは(せい)(ちゃく)を待つばかりだ。

裕子さんの頑張りにATL細胞も降参したのか、骨髄移植後の経過は大変よかった。骨髄移植の後、無菌室から出ないように徹底したこともあり、危惧していた感染症や重篤な副作用も生じなかった。裕子さんは数ヶ月前に撮った家族写真を机の上に飾り、体調が優れないなかでも心の拠り所としていた。キャンプ地で有名な河川敷で撮られたその写真は、飯盒(はんごう)を囲むように立花さん家族が映っており、みなの笑顔が生き生きと輝いていた。

「薬の苦さや病気の痛みは我慢できるけど、家族と一緒にいられないのは、耐えられない」

総回診のたびにそうこぼされ、わたしはいつも困り果てたものだ。