四国から中国に渡りました。この時にこの二つの地は、極近いことを実感しました。実感しないと、後の私の毛利戦略は生まれてこなかったと思います。やはり、現場、現物、現実が重要です。

その後、私は毛利家に行き、もちろん、仕官をお願いしました。斉藤道三様のことや土佐での活躍を懸命に説明しました。次が一次面接で聞かれたことです。

「自己紹介をしてください」

「私の名前は明智光秀です。源姓土岐氏の一族で、美濃の斎藤道三様に仕えていました。長良川の戦いでは道三様の側近として控えていました」

「側近とはどのような仕事をしていたのですか?」

「お側に控え、道三様からご下問があった際に答える、軍師的な役割をしていました」

「軍師的とは? 結局長良川の戦で、道三殿が負けましたよね。明智殿は何をしていたのですか?」

「私も手を尽くしましたが、やはり多勢に無勢、約6倍の軍勢には勝てませんでした」

「どう手を尽くしたのですか? なぜ、人を集められなかったのですか? 道三殿の人望がなかったからじゃないのですか? なぜ、勝ち目のない戦をしたのですか? あなたは、戦を止められなかったのですか?」

一遍にいろいろなことを聞かれ、頭が真っ白になってしまいました。やっとの思いで出した回答は、「道三様は蝮ですから」でした。

「意味が分からない。ところで、いくつ敵の首を取ったのですか?」

「うーん、まだ零です」

「もう結構です、分かりました」

家柄はいいのですが、それだけで一人では何もできない、若くもない、剣の腕も大したことがない、またあまり大した実績もない、と評価されたようでした。

年齢のことは仕方がないものの、一人で何もできないとは何事かと、少しだけ食い下がったのですが、結局、二次面接(毛利家当主または親戚筋)や能力試験(学力や剣術)を受けさせてもらえませんでした。

「毛利よ、今に見ていろ! 頼まれても仕官などしてやるものか。私が大名になったら、攻め滅ぼしてやるからな」と心に誓いました。

次に九州に渡り大内氏の門を叩き、取り敢えず私の身上書を提出しました。

しかし、回答は、

「大変立派なご経歴をお持ちですが、今回は、貴殿のご要望に添った職種・地位がありません。今後のご健闘をお祈り致します」

というものでした。

「何が、今後のご検討をお祈り致しますだ。何がご要望に添った職種がないだ、職があると聞いたから身上書を出したんだ。こっちは妻子を抱え路頭に迷っているんだ、クソ食らえ。どうせまた、年をくっているとか、家柄が良いだけの男と評価されたのだろう。ここも、将来、攻め滅ぼしてやる」

成人してからは、沈着冷静な男と言われていたのですが、段々と性格が変わってきました。

大友氏にも行きましたが、結果は同じでした。実は、このようなパターンで何件も何件も面接もなしに断られ続けました。私の弱い心が折れそうでした。長宗我部様からのご提案を断らなければ良かったと、今更ながら後悔しました。

「これからどうしようかなあ、お金もなくなっちゃったよ。もう煕子の所へ戻ろうかなあ、でも再就職できないと煕子に合わせる顔がないなあ、怒るかなあ」と思いながら豊後府内でお腹を空かしながらとぼとぼと歩いていました。

煕子の内緒の話:つらかったんだね、大変だったね。現実は厳しかったね。絶対に彦ちゃんの能力を理解してくれる人が出てくると思います。でも、就職できなくても怒らないよ。つらかったら、心配しないで早く帰っておいで。この頃、特に彦ちゃんに似てきた十五郎も、お父さんに会いたいよーといつも泣いています。早く帰って来て、煕子が稼いであげるから、と言ってあげたかった。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『弑逆者からのラブレター 「本能寺の変」異聞:明智光秀と煕子』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。