「なあ、父さん」そこで智が背後の仏壇に目配せしながら言う。

「聞きたいことがあるんだけれど」

「なんだ」

「家族ってさ、どんなもんなんだよ」

意外な問いかけに老眼鏡を拭く手が止まった。そんな抽象的なことを尋ねてくるなんて、どういう風の吹き回しか。

「どうしたんだ、急に」

「いやさ、今度の演劇で父親役をすることになったんだけど、ふと考えたんだ。父さんって根っからの仕事人っぽいのに、俺の運動会とか演劇本番とか、いつも欠かさず来てくれたじゃん。どういうふうに折り合いをつけていたのかなって」

わたしは頬杖をつきながら湯呑みに口をつけた。心に蘇る愉快な記憶たち。だがそこには癒えることのない傷も深く刻まれ、綺麗な言葉だけで括ることはできなかった。

「家族との時間をなによりも優先することにしたんだ。様々な葛藤はあったがな」

わたしは老眼鏡を掛けなおした。陳腐な言葉で括りたくない過去のひとつやふたつ、だれにだってあるものだ。ひとつ言えることがあるとすれば、今までの悲喜交交(ひきこもごも)のすべてが、今日のわたしを形作っている。

「俺がいないほうが仕事に打ち込めた。そういうふうには思わなかったわけ」

「馬鹿なことを言うな。そんな訳がないだろう」

「俺さ、ずっと気になっていたんだよ。父さんは、本当は、教授になりたかったんじゃないのかってさ」

智はいつしか鋭い眼になっていた。酔いも手伝ったのかもしれないが、いつも以上に踏み込んだことを尋ねてくる。そういう夢を描いた時期もたしかにあった。未練がまったくないと言えば嘘になる。だがそれも人生の妙味、ほろ苦くも味わい深いものだ。

「教授になるだけが人生じゃないと、ある日、気がついたんだ。なにかを得れば、なにかを失う。一切合切を捨てて夢を叶えたところで、側にいる人々をしあわせにできなければ、虚しいだけだ」

「なにかを得ればなにかを失う、ねぇ」

智は低い声で頷くと、椅子を蹴って立ち上がる。その足は渡り廊下へと向けられている。

「等価交換ってのも、たしかにあるか。父さん、ありがとな。なにか掴んだ気がするよ。それからごめん、母さん。今から友達と電話してくるわ」

「ちょっと、智。食事してからでいいじゃない」

「悪い、今じゃないと駄目なんだ」

多恵の小言など、どこ吹く風、智は颯爽と駆けていった。自分の道を突き進むその背中はとても頼もしく力強い。わたしはその背中に語りかける。

なあ、智。ひとつ伝え忘れていたことがあったぞ。

自由奔放な息子の父親というのも、存外、悪くないんだ。