老画家

画家は出雲の御出身であった。新制作協会で長年、作品を発表しておられた大先輩である。日本海の荒海や、廃屋、ゴッホの家など風景画を得意とされていた。

もう十数年前の秋、誘われて画家夫妻とその仲間たちと共に、フランスのブルターニュ地方二週間旅したのがご縁で親しくお付き合いをしていた。

夫妻と共に展覧会を観に行ったり、お茶をご一緒したりのお付き合いであった。が二年後の冬、発見の遅れた胃癌の為、夫人に先立たれた。夫人の闘病生活は半年余りであったが、画家にはその半年が短く、本当に短く思えたそうで、全く心の準備ができていなかったという。

ある日、画家から電話が入った。「今日は貴女ではなく、精神科医のご主人と話がしたい」と言うので、受話器を夫に渡した。長々と話を聞いていた夫によれば、夫人を亡くしたショックによる鬱状態であった。

その頃、画家は何も手に付かず、眠れず、全く途方に暮れていたそうである。幸い御長男の家族と同居していたので日々の暮らしには不自由はないと思われた。が、ある日、息子さんから電話があり、大変なことが起こったと言う。夫と共に画家の家に駆け付けてみると、画家は呆然とアトリエに座っていた。聞けば、アトリエの梁で首を吊ろうとしたらしい。物音に気付いたお孫さんに助けられて、一命を取り留めたのだった。夫は家族を説得して精神科の受診を勧めた。それから精神科の治療を受けるようになって、少しずつ、本当に少しずつ良くなって来た。……それは時の経過がそうさせたのかもしれない。

夏のある日、画家をなぐさめようと、親しい仲間二人を招いて我が家でワインパーティーを開いた。大喜びで来宅した画家はワインを飲みながらも、話題は夫人のことばかりだった。

「かみさんと一緒に来たかったなあ。どんなに喜んだか知れません」と言う。拙い私の料理を食しながらひと時を過ごしたのだった。

アトリエでは、この秋の展覧会のために制作中の作品への厳しいアドバイスを頂いた。

ご自宅へ送る助手席に乗った画家は一言、「楽しかったなあ」と呟いた。

その後、我が家はたびたび、画家を迎えてランチを共にしたのだった。

九月、新制作展が始まった。画家は『サンマルタン運河・パリ』100号を出品。画家特有のタッチで力強い作品だった。私の作品は画家が称賛して下さったほどには良いとは思えず今一つパンチが足りないと反省しきりであった。が、会期中は役目もあって、あたふたと毎日が過ぎていった。

会期も終わりに近い十月二日の夜、画家から元気そうな声で電話があった。

「昨日、息子に付き合ってもらって展覧会を観て来ました。貴女の絵、会場で観ると、ちょっと弱いのよね、もっと黒が欲しかった。メンバーの絵、あまり良くないなあ。本当に傾向が変わったねえ」との感想を語られ「また会いましょう」と電話を切ったのだった。

その翌日、会期の最終日の行事も終わって帰宅して間もなく電話のベルが鳴った。画家の子息からだった。

「父が亡くなりました」と言う。にわかには信じられない知らせであった。

聞けばその日、家族は皆留守だったとのこと、子息の奥さんは午後二時に買い物に出かけ、四時頃帰宅したそうである。その時、すでに画家は冷たくなっていたとのこと。画家は八十三歳、心不全とのことだった。出品を続けてきた画家は新制作展の終わる日、終わる時間に逝ってしまった……。

パリの街のデッサンと、ブルターニュの油彩画が置かれた告別式の会場で、子息と話す機会があった。「僕らサラリーマンは、親父の話に付き合えなくて困りました。子供たちもジャンルが違って、やはり話ができなかった。お袋が亡くなった後、寂しかったと思います、でも絵描きとして全うできて幸せだった」と、しみじみと語られた。

前夜のお通夜は台風に見舞われ、ひどい風雨だったが、それは画家の絵画への熱い思いが吹抜けたのだろうか。

昨夜の嵐が信じられないほどの澄んだ空の下、大勢の身内の方々と仲間たちに玉串を捧げられ、偲び拍手に送られて画家は夫人の元へ旅立った。

サヨナラ先生!

(平成十六年)

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『日々の暮らしの雫』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。