母はどんな思いでいたのだろうか。こうして食べられなかった私の宝物は消えてしまい、目の奥に焼きついた。

そして、母の手料理も家庭の味も知らずに、中学校を終えてすぐ、私は一人上京したのだった。あれからもう半世紀余りが過ぎた。夢中で働いてきた五十年……。気付いたら日本は、いつしか豊かになり「飢え」は忘れ去られた。

飢えを忘れ、物に満たされてから何故か、人々は節度を失い、あらゆるところで自分本位になったように思える。皮肉にも今はダイエットが大流行である。

スーパーマーケットの駐車場に車を停めて店内に入る。溢れんばかりの食品の数々。色鮮やかな野菜、果物、棚いっぱいの缶詰やお菓子、中にはまだ手に取って見たこともないものさえあるのだ。

果たしてこの食料品のどれほどが国内でまかなわれているのか、と心配になるこの頃である。まして、すでに調理された「パック詰め」の料理の多さに驚く。

その便利さで食卓は占領され、ますます料理のできない若者が増えるのではないか。お金さえ払えば、どんなお店も怖くない、若い"グルメ"達の自慢そうな顔に、私は首を傾げたくなる。

「デパ地下」の賑わいは果たして「家庭」を豊かにするものだろうか?

そして、何よりも私は、幾つもの「食」を扱った馬鹿げたTV番組を腹立たしく、不愉快に思う。

私は、いつものように、いつもの物に手が出てしまう。時には変わった物を、と思うのだがどうも保守的で、冷凍ものや、レトルト食品も遠慮してしまう。そんな話をある先輩にしたら、

「今の技術で、冷凍食品は馬鹿にしたものではありませんよ。お試しになってごらんなさい」

と言われたこともあった。彼は冷凍食品の専門家だった。これでは料理のレパートリーも増えないわけだ。が、籠の中には、生肉、生魚、野菜、豆腐等など。そうそう、玉子は忘れないように。

価格も栄養も優等生の玉子は冷蔵庫には欠かせない。袋いっぱいの食料品を抱えて店を出る。けっこう重い。この食料が二、三日でたった二人の胃に納まってしまうのかと思うと、いつも驚く。

この豊かさや、贅沢はいつまで続けられるのだろうか?

尤も、我が家はもう年金暮らしで、贅沢はできないのだが……。今日はやはり、夫の好物のお肉を焼こうかな、鰤大根もいいな……。まだ迷いながら帰路に着いた。

街路樹は寒そうに乾いているが、枝先はもう春を含んだ芽がほのかに赤い。

「そうだ! 帰ったら居間の飾り棚に玉子をひとつ置いてみよう」

と、とりとめのないことを思いながら、私はアクセルを踏んだ。

(平成十五年)

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『日々の暮らしの雫』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。