ひとつの玉子

「垣根の、垣根の曲がり角、焚き火だ、焚き火だ、落ち葉焚き」のメロディーを流しながら灯油売りの車が家の前を通って行った。絵筆を置いて時計を見る。

「あっ、もう四時。買い物に行かなくては」

……バタバタと道具を片付けて台所へ行き、冷蔵庫を覗き込む。今日は買い込むものが沢山あるな、玉子も切れてる。さて今夜の主菜は何にしようかな、と考えながら家を出た。

玉子で思い出すのは遠い昔のことだけれども、今でもその白いひとつの玉子は鮮やかに目に残っている。昭和二十年三月十日の空襲で焼け出された私たち一家は、母方の祖母を頼って栃木県の田舎町に疎開していた。

私は小学二年生だった。そこは八溝山地の麓の盆地にある小さな城下町で、夏は暑く、冬の寒さが身に沁みる町であった。端から端までは十分もあれば歩けるくらいの町並みで、周りは低い山ばかりで、田圃は谷戸に入り込んだ棚田が多かった。

町のシンボルの城山は百メートルほどの高さで、城跡の桜だけが華やぐ町だった。その町はずれの城山を背にした、古い十軒長屋の六畳一間に、親子六人が重なるようにして暮らしていた。

町には、父が働けるような工場も会社もなかった。父には学歴も何かの資格もなかった。正直でお人好し、ただ手先の器用な人だった。農家の手伝いをしたり、頼まれれば大工仕事などもしていた。

全く欲がなく、終生お金には縁のない人だった。着の身着のままで、炎を逃れた私たち一家には家財も着るものもなかった。が、より惨めだったのは日々の食べ物がないことで、いつもひもじかったことを思い出す。

親たちは食べ物を求めて走り回っていた。ある時、祖母に連れられて近隣の農家を訪ねた。祖母は大事そうに抱えていた風呂敷包みから着物を取り出して、そこのおばさんに渡した。

代わりに受け取った少しばかりの小麦粉と、じゃがいもを背負わされて山道を下ったことを憶えている。それは昭和二十二年ごろのことである。

ある夏の日のこと、祖母の家から貰ったらしい古ぼけた食器戸棚の中にひとつの玉子が置いてあった。

「あっ、玉子だ!」

私は驚いた。久しく玉子など見たこともなかったから……。それは前日、父が農家の手伝いをして頂いてきたものらしかった。その白い「ひとつの玉子」は、私の幼い日を想い起こさせた。

私は五歳まで一人っ子だったので甘やかされていたのだろう。玉子ご飯が大好きで、玉子がなければ「ご飯は食べない」と言っては母を困らせたらしい。

母の袂につかまって買い物に行った市場で、玉子は必ず籠に入れられた。そして朝は、いつも生玉子をかけたご飯だった。しかし、それも戦争が始まってからは、いつしか食卓から消えてしまった。

やがて、玉子どころかお米さえ乏しくなって、雑炊ばかり食べていた。けれども、その戸棚の中のひとつの玉子は食卓にのることはなかった。塩味だけのすいとん、サツマイモやカボチャばかりの毎日だったけれども、誰もその玉子を「食べたい」とは言わなかった。

尤も、幼かった妹たちや弟は「玉子」そのものを知らなかったかもしれない。私には、その玉子が宝物のように思えた。毎朝、それを眺めては登校したのだった。

当然「お弁当」など持たされることもなかった。昼休みは、いつも校庭の隅っこで皆がお弁当を食べ終わるのを待った。二、三週間も経ったろうか、ある朝その玉子が消えていた。

「あっ、玉子がない!」

と言うと母はあっさりと

「あれは腐ったから捨てたよ」

と言った。