(2)天守台だけで天守閣のない江戸城

城は戦争に備えるものですから、日本では戦国時代に大いに発達しました。織田信長の居城、安土城は京都へ行く要衝の地にあり、豪華な天守閣と共に、総石垣で作られた実戦的な城として諸国の豪族達の注目を集めました。そのため、戦国時代から江戸時代初期にかけての築城では、安土城は日本全国の模範となりました。

豊臣の大坂城、徳川の名古屋城、加藤の熊本城は日本の三大名城と言われ、今でもその偉容を誇っています。日本の城は、地上の構造物よりも、その城壁や土台の石垣でその優劣を競ったようです。これらの三つの城はいずれも実戦的で守るのに堅固な城だと言われています。

しかし、実戦的よりも美しさで圧倒しているのは姫路城です。別名、白鷺城と言われ、白漆喰で塗られた天守閣を始めとする地上の構築物は壮麗で、世界遺産にも登録されました。

江戸城は、家康、秀忠、家光と三代に亘り築城が続けられ、日本一の規模を誇りましたが、三大名城のような強固な城壁もなく、姫路城のような美しい構築物もありません。

江戸城の天守閣は明暦の大火(1657年)で焼失して以来、再建しなかったので今は天守台しかありません。江戸城は平城ですから、内濠、外濠の二重の濠で防御を固めていますが、多くの濠の石垣は、石積みの構造は平凡で造りは貧弱です。

但し天守台の石垣の造りは入念に工夫された跡があります。一つ一つの石塊は大きく、その積み方は寸分の隙間もない切石整層積だけの石垣で、インカの石積みを想記させます。

幕府という名前の由来は、昔、征夷大将軍が出陣し、陣中で幕を張って政務を執ったと言う意味で、京都に天皇が君臨し、武士は仮住まいの陣幕の中で統治したと言う発想は、頼朝の鎌倉幕府に始まりますが、その後、武士政権が続くと、城の大石は天下を平定した威信を示す意味にもなりました。

徳川幕府も、江戸城という陣幕を石垣で飾りましたが、江戸城の石垣の大石は何処から運んできたのでしょうか?

江戸城のある武蔵野台地には大石は少なく、もしあっても陸路を運ぶのは困難ですから、伊豆、箱根辺りから切り出し、小田原から海路を使って運ばれたと言われています。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『東京の街を歩いてみると』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。