あの光景は今もまざまざと脳裏に焼き付いている。

気付けば私は裸足だった。いつも枕元に置いていたセーラー服もランドセルも、オーバーも忘れていた。

辺りは焼け出された人々でいっぱいだった。そのとき一軒のお屋敷の門が開かれて人々を迎え入れて下さったのだった。私たち母子も広いお座敷に通された。そこにはすでに大勢の人が肩を寄せ合っていた。

その夜、坂の上は空襲を免れたのだった。

翌朝、母は焼け跡に呆然と立っていたそうだ。そこへ父が転げるように走って来たという。鎌田の工場から市電を乗り継いできたそうで、霞町一帯では沢山の遺体を見たと聞かされた。家の焼け跡には、台所の水道から水が出っ放しになっていた。母が火を消そうと栓を開けたのだろう。明日の朝食にとお米を研いであったらしいお釜がただ一つ、ひしゃげて残っていた。

その日、父がどこからか下駄を買ってきてそれを履かされ、母に連れられて青南小学校へ行き、転校の手続きを済ませた。

こうして私たち一家は被害者で溢れた上野駅から汽車に乗って、母方の祖母を頼って栃木県の茂木町へ向かった。持ち物はひしゃげたお釜一つだった。

こうして青山とはぷっつりと縁が切れたのだった。

因みに、その日の空襲で本所と三河島に住んでいた父の姉妹も焼け出されたであろうが確かめようもなく、父は生涯その姉妹の生死を知ることができなかった。

茂木町での暮らしの貧しさは筆舌にも尽くせない日々だったが、こうして生き延びることができたのはあの根津さんの坂のお陰だったと今も思っている。

想い出の道にただ一つ残った青南小学校の校舎を見ながら根津美術館へと歩く足は過去を振り切るように早まった。

(平成三十年)

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『日々の暮らしの雫』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。