二〇二X年 夏

くねくねする右腕

「お父さん、チョコバニラアイス買ってー」

そこへキッズ・パークで遊んでいた隣の姉弟が戻って来ます。バンパ君がすぐそばを歩いて行きましたが、その大きさは私を驚かせました。一体どんな巨人が中に入っているのでしょう?ひょっとしたら着ぐるみなんかではなく本物なのかもしれません。遠巻きにこちらを見ていた両親は、そそくさと荷物を片付け、子供の手を引いてどこかへ行ってしまいました。

「すみません。煙草を一本吸わせてくれませんか。そしたらきっと治りますから」

私は懇願しました。シャツの胸ポケットには、もう何十年も前に禁煙していたのに、つい最近になって再開した煙草と簡易灰皿と百円ライターが入っています。

「ここは全館禁煙だよ。吸いたかったら外へ出てくれ」

警備員はもぎ取るように手を引っ込めて言いました。

「わかりました。大変お騒がせして申し訳ありませんでした」

私は素直に従いました。椅子から立つと少しふらつきましたが、右腕はほぼ落ち着きを取り戻しています。もう大丈夫だと思い、冷ややかな視線を背中に浴びながら、まずはトイレへ急行しました。そこで下痢気味の大便を心ゆくまで排泄してから、建物を出て巡回バスの乗り場へ向かいました。便利なことに、買い物をする客はT駅まで無料で送迎してくれるのです。

誰もいないベンチに座ってバスを待ちました。バスは通常三十分置きですが、この時間帯は便を減らされていて、次は一時間後でした。冷房の効きすぎた館内を出た途端、熱気の塊が押し寄せてきて、すぐにシャツは汗だくになりました。夏の太陽がじりじりと照りつけてきます。それに抗うように煙草を吸いましたが、かえって逆効果だったようで、頭はのぼせたようにぼおっとしてきました。

館内から女子中学生の集団が吐き出されてきました。体育の授業をサボっているのかもしれません。白地に青い校章が刺繍されたTシャツと、オムツと同じ形状のブルマを着用しています。「えー、キモッ」「ありえへんわー」「チョーウケルー」などとしゃべくりながら、ベンチの後ろを通り過ぎて行きました。彼女たちは赤い紐で鉢巻きをしており、滴る汗がシトラスミントの香りでした。私は大きく深呼吸して、それを胸一杯に吸い込みます。右腕は何事もなかったように澄ましていますが、一度然しかるべき病院を受診せねばならんな、と考えざるを得ませんでした。

やっとバスがやって来ました。企業のイメージカラーに塗られたノンステップバスです。が、なぜか行き先の表示がどこにも出ていません。とりあえず乗ってはみたものの、急に不安になって、「T駅へ行くんだよね」と聞いたら、茶髪の若い運転手は口がきけないのか、「い・く」と脣の形だけで答えてくれました。私は礼を言って一番後ろの席へ歩き、窓際の穴倉みたいな席に座ります。

バスがゆっくり走り出すと、途端に強い眠気が襲ってきました。私は窓ガラスに額をつけて、しばしうたた寝をしてやろうと目を閉じました。すると不思議なことに、もやもやした雲の切れ目から見下ろす遙か下界の景色さながら、遠い昔の一夏から秋にかけての出来事がまるで昨日のことのように浮かんできます。バスが駅に着くまでの僅かな時間でしたが、それはとても楽しいひとときでした。バスが何かを言祝ぐように間延びしたクラクションを鳴らします。ゆうに半世紀を経て、窓外の景色はすっかり様変わりしていますが、ほんの少しだけ開けた窓から吹き込んでくる風は、昔ながらの湿った土のにおいを含んでいました。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『金の顔』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。