第二章 忠臣蔵とは何か

事件の伝承

赤穂浪士らによる主君の仇討ちは賞賛され、世間では一定の評価がされてはいたものの、あくまでも公儀により切腹を申し付けられた咎人である。当然ながら、庶民においても公儀が裁いた咎人を表立って英雄視したり崇拝の対象にするわけにはいかず、赤穂浪士の人気が俄に高まるにつれ、庶民らも公儀を忖度し、彼らへの評価を極端に華美にしない風潮があったと考えられる。

その影響は江戸時代の出版界にも見られ、明和八年(一七七一)、京都の本屋仲間が特定書籍等の取り扱いを自主規制するために、自ら『禁書目録』を作成し仲間内で共有しているが、その売買を禁じる諸本の項目に元禄赤穂事件を扱った書物が多く指定されている。具体的には『義人録』『鐘秀記』『易水連袂録(えきすいれんべいろく)』『赤城盟伝』などで、今日元禄赤穂事件を知る上で、より史実に近い内容であると評価されている書籍が押し並べて対象となっている。

売買禁止の指定を受けた『義人録』とは室鳩巣が著した『赤穂義人録』のことで、『鐘秀記』は杉本義隣著の『赤穂鐘秀記』のことである。また『易水連袂録』は著者不明とされているが、解説にさる旗本が記したとあり近年改めて注目されている書物である。

これらはともに赤穂浪士らが切腹した年の元禄十六年に著されたもので、忠臣蔵にありがちな後の創作や芝居などからの影響を全く受けていない書物であることから、雑音が少なくより真実に近い事実だけが反映された一級史料と評されている。

また、『赤城盟伝』は四十七士のひとりである前原伊助と神崎与五郎によって著され、主君による刃傷事件を家臣としてどのように受け止めていたのか、また家臣として仇討ちに臨む自らの覚悟とともに、脱盟していった同志らに対する痛烈な批判が綴られており、最終的に腹をくくった者にしか判らない当事者によって記された貴重な史料である。

このように、事件以降元禄赤穂事件に関する多くの書物が売買禁止となっていたことから、江戸時代には事実や真実に基づいた元禄赤穂事件の史料はほとんど出回っていなかったため、一般には事件の詳細を知る手掛りは整っていなかった。このような背景のなかで、事件の伝承に最も効果的だったのが浄瑠璃や歌舞伎などの芝居であった。

元禄時代(一六八八~一七〇四)には徳川政権も安定し様々な文化が花開く。とくに娯楽においては芝居が人気を博し、既に歌舞伎も上演されてはいたものの、人気の面においては浄瑠璃の方が先行していた。

ところが、この芝居にも制限が設けられ、幕府に関連した事案についての扱いは一切禁じられ、とくに徳川家を揶揄する表現や市井での出来事をそのまま芝居に持ち込むことは固く禁じられていた。元禄赤穂事件は公儀が直接裁決に関与していたことから当然上演禁止の対象となっていた。

しかし、事件直後からの反響は大きく、興行側からすれば赤穂浪士を芝居のなかに上手く取り入れたいとの思いがありながらも、同時に自らにも危険が及ぶ可能性を十分認識していたはずである。そのため、元禄赤穂事件の芝居への取り込みは、公儀の対応を考慮しつつ、徐々に工夫を凝らしながら芝居の中へと組み入れられることになる。
 

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。