教育には多様性が必要

世の中の知識や経験は独占されがちです。情報の非対称性、すなわち保有する情報の格差が、価値を高めるからです。

しかし、教育をめぐる大人の世界は、情報をオープンにして話し合ったり、ちがいを認め合ったりするムードがほしいですね。子どもと日本の未来がかかっていますから。

多様でありたいです。

世の中には誤解があるようですが、多様であるから争うのではなく、一様であろうとして争いは起こります。多様であることを認め合えば、争いは起こりません。ちなみに、「競争」は、悪い争いではありません。競争とは、多様性の「交通整理」の手段です。

怖いのは、競争が目的化してしまうことです。公正公平な競争があるということは、多様性を受け止めている証拠でもあります。

逆に「同じが基本」って、イヤじゃないですか? ムラ社会みたいですよね。

しかも、今の二極化が激しくなっていく社会構造では、「同質圧力」は「下方圧力」であって、昔のような中産階級を指してはいないわけです。どうしたって「向上心」に結びつきにくいですね。

優しいってことは、ちがいを認めるってことではないでしょうか。でも、ムラ社会はちがうもの、ちがう人を排除します。多様性は攻撃対象です。イヤじゃないですか?

群れなければいけないですかね? 連帯ではいけませんか? 群れずにつながることはできませんか?

ムラ社会は、そもそも勝手を許しませんね。でも、勝手とは何か、誰がそれを決めているのかと考えると、ムラでは、みんなとちがうことはすべて勝手ということになりがちではないでしょうか。

それって、怖くありませんか? こういう同質圧力を排除しておかないと、危なくないですか? 日本型のいじめの根っこにも、同じ原理が働いています。

「競争」の観点からも、人間的な「優しさ」の観点からも、多様性は大事です。教育に関して、大人が多様な意見を表明して、教育の世界を広げることがとても重要ではないかと思います。

多くの人にとっては、自分が歩んできた学校歴が、「教育」の全部です。それ以外の教育の場のことは知りません。子どもができると、親という新たな立場で教育に触れますが、公立派は公立派のテリトリーで、私立派は私立派のテリトリーで、「知っている世界」を確認しているだけのことが多いかもしれません。

結婚して、独立して、ちがう地域に来ても、そこで公立派が私立を選んだり、私立派が公立を選んだりするには特別な理由がいります。特に理由がなければ、そのまま世襲のように公立派は公立へ、私立派は私立へという流れがあるように思います。

これを自由にしたいですね。教育の世界は、本当はけっこう広いですから。

※本記事は、2016年11月刊行の書籍『先生の塾に入ったら、東大行けますか? 今どきの東大合格のコツ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。