昨日までは勝手知ったる東京にいたのに、今日から知らない土地で一人。現場を知らず、誰に頼ってどう相談したらよいかも知りません。アウェーで、かなり痛いところで新しい部下に出会うため、第一印象もよくはないわけです。

これって、双方に気の毒な話です。

仕組みのうえでは、出向してくる人は経験を積みに来るのですから、現場も「できないのは承知」で受け入れているはず……なわけですが。

一方で、アウェーの現場にうまく入っていける人もいますね。

例えば、M県に入るなら、赴任する部署に関係するM県の数値がすべて頭に入っており、それ以外にも知識が豊富であるような人。

適切に目標設定と課題共有ができて、パフォーマンスに焦点を当てられる人。

情報を冷静に分析して、適切な追加情報を求め、優れた判断ができる人。

視座が高く、視野が広く、人の仕事をよく見ていて、外との調整ができる人。

バイタリティがあり、考えぬく人。

感情をむき出しにせず、正しいことはそっと言う人。

そんなふうに、現場の協力を得やすい賢さを披露するキャリアを見ると、「これはかなわないな」と思うわけです。

大人が社会を考えるときには、こういう社会の接合部を考えることも大事ですね。そして、公立派、私立派に分かれるような価値観のちがいを強化するのではなく、多様性を受け入れ、融合する方向性を探ることが、世の中のためになるのではないでしょうか。

ついでに付け加えると、文科省の会議に行くと、当然ですが「官僚」の話を聞くことになります。初めて出張したときは、「これが官僚か」と若い官僚を見上げるわけですね。

やがてわが県の教育委員会指導課長になるのはこの中の誰かなのです。

現場教員のほとんどは、教えるほうの専門家ではあっても、相対的に見れば勉強をやり切ったわけではありません。その意味で一流の官僚を前にして、論理で競う理由はなく、もちろん権力においても勝てないし、そのつもりもないわけですね。そして、彼らが真に優れていることは、うちの県にとっても重要なわけです。そして、そんな官僚を育てるのもまた教育なのです。

さて、ある日あるときの出会い方が悪かったことで往々にして、その悪い印象に基づいてその人や東大を評価しがちになります。またその勢いで、東大の象徴である勉強まで悪であるかのように曲解して、「あんな人間になってはいけない」と子どもたちを部活動の世界にこもらせてしまいます。そういう場合、指導している先生も、もちろん「部活ごもり」に入っています。

公立的部活動では、部活がメイン、勉強はサブになりがちで、勉強を優先させません。どんなに勉強ができなくても部活はさせます。それは「この子から部活をとったら何が残る?」という親心ですが、一方では「この学力なら、部活をやっている場合ではない」という考えもあるわけですね。

学校生活の大半を、授業を受けて勉強に費やしながら、その学びの結果が伴ってこないのは、勉強に対する価値観のちがいがあるからではないだろうか、と感じます。

※本記事は、2016年11月刊行の書籍『先生の塾に入ったら、東大行けますか? 今どきの東大合格のコツ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。