三章 退院

大阪警察病院を退院してから大阪大学附属病院に入院するまでの約一年間も、私の若年性多関節リウマチの症状は継続していた。警察病院の谷池雅子先生に紹介してもらった大阪南港にある阪大病院でリウマチ研究をしていた小児科医院の玉木先生のところに週一回通院していた。その頃にはもう谷池先生は警察病院にいなかった。

玉木先生の受診のあとに、母とお寿司かロイヤルホストでランチを食べるのが恒例だった。朝方と夜に関節の痛みと腫れと発熱の症状が出るのが私のルーティーンだった。この頃に指のこわばりの症状が出始めた。

症状を抑えるために免疫抑制剤/ステロイド服用は欠かせず、副作用で太った関取のままだった。午前中に症状が治まると、母は私をランチやショッピングに連れて行ってくれた。この頃は、走れてはいなかったが、膝の痛みを伴いつつも歩行はできていた。

症状がひどい時は、ご飯の時以外はベッドでテレビを見ながら過ごした日も少なくなかった。しかし、警察病院に捕らえられていた時よりも、私は遥かに自由だった。姉と弟に毎日会えるのが本当に嬉しかった。

二人の学校の話を聞くのがお気に入りの時間だった。時々、弟は友達を家に連れてきてテレビゲームをして遊んでいた。私は後ろから見ていて時々参加させてもらった。

姉と弟以外の子供たちと接することがなかったので、こういった時間はテンションが上がりまくり気分はウキウキ&フワフワだった。弟の友達は私の友達と錯覚しそうになるほどだった。

学校は姉と弟が通っていた校区の小学校の特別学級に在籍していた。時々、私の担任が姉をとおしてプリントを届けてくれた。この時期、実際にはあまり勉強はしていなかった。

症状的に辛くなかったというと噓になるが、このように楽しい日々が続いていくのだと疑いもしなかった。だが、私の症状は悪化し始め、四〇度以上の高熱、多関節の痛みと指のこわばりがどんどんひどくなり我慢できなくなった。

座薬の効果が悪くなり発熱の間隔も短くなり、玉木先生が「これ以上通院で診ていくのは難しいだろう」と判断し、私を大阪大学附属病院に紹介した。ここから阪大病院での日々が始まる。

※本記事は、2018年9月刊行の書籍『車イスの私がアメリカで医療ソーシャルワーカーになった理由』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。