篠原(しのはら)先生、調子はいかがですか」

儂は眼を細めた。先生と呼ばれたのは遥か昔のこと。小っ恥ずかしい気もするが、まんざらでもない。

実の名前よりも長く呼ばれた呼称だ。愛着は捨てきれない。

「悪いところしかないな。髪もなければやる気もない」

「やだ、しっかりしてください。そんな調子のいいこと言って、ぼけたら駄目ですよ」

「こら手厳しいな」

今日の宮下とかいう看護師は、なかなかに勝ち気でよろしい。左手を差し出すように促されたので指示に従う。宮下は慣れた手つきでカフを巻きつけて血圧を測っていく。水銀柱は跳ねるように急上昇し、ゆるやかに降下していく。

「どうだ、良い結果か」

「今日は上の血圧が高めですね。お薬の追加が必要かもしれません」

カフを捲いた腕に赤みがうっすらと残る。弛んだ皮膚は弾性を失い、もはやボロ雑巾だ。

「すまん、痛み止めを増やしてくれと先生に頼んでくれんか。膝が痛くてかなわん」

「それは大変。すぐに伝えますね」

それから二、三の問答をし、宮下は情報をカルテに記入していく。儂は他人事のようにそれを傍観していた。どうも頭が働かない。これは現実なのだろうか。ただはっきりしているのは、手首と踵、それから膝の痛みだけ。長生きするとろくなことがない。生きているから痛むのか、痛むために生きているのか。なにもかもの線が溶けて曖昧になる。

宮下はカルテの記入を終えると、隣の患者の世話に移った。その背中にまたしても舌打ちが漏れる。

交わりそうだった心を踏み(にじ)られた気分。儂は大勢いる有象無象の患者のひとりか。憤りを感じながらも、一方では諦観している自分もいる。

これは因果応報だ。儂もかつてそうだったではないか。病院業務は膨大で、患者一人に割く時間は驚くほどすくない。「忙しい、またあとで」そんな生返事で、儂を求める視線をなんども振り払ってきた。

こんなことで目くじらを立てるようでは、もう駄目だ。それに膝が痛いと訴えたばかりに、痛みが増してきた。言葉というものは厄介だ。形にすると逃れられなくなる。

「『老兵は死なず、ただ去るのみ』か」

マッカーサー元帥だかなんだかの言葉で気分を紛らわそうとしたが、膝のじくじくとした痛みが儂を捉えて離さない。痛みは減らず、減るのは活力ばかり。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『門をくぐる』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。