越前紀行

山科から逢坂山を越えて近江に入り、瀬田の唐橋を渡り、その晩は草津にて旅装を解いた。翌日は、琵琶湖東岸を北上し、安土山の麓、常楽寺にて一泊した。この辺りは、佐々木氏(六角承禎(しょうてい))の所領の真っただ中だった。翌日はさらに琵琶湖東岸を北上し、佐々木氏の主城観音寺山城を右手に仰ぎ見ながら進んだ。

その夜は米原にて泊まり、翌日はいよいよ浅井氏の領土である江北に入った。この浅井氏は後に織田信長の妹お市を妻とし、信長と同盟を結んだのだったが、信長を裏切り、朝倉氏と結託(けったく)して反信長同盟に加担したために、後に信長により攻められ、朝倉氏共々滅亡した。

その浅井氏の主城である小谷(おだに)城は、湖北の湖岸の右手に高々と聳え、辺りを睥睨(へいげい)していた。その小谷城を右手に進み、その夜は、賤(しず)ヶ岳の麓、余呉(よご)の湖畔に宿を取った。

翌日、塩津街道をさらに北上し、越前敦賀に向かった。越前朝倉氏の出城の、疋田(ひきた)城のある峠の山上に来ると、遥か前方の眼下に若狭湾が望まれた。それは、早春の暮れなずむ夕日にきらきらと輝いて、妻の煕子は思わず歓声を上げた。

敦賀にて旅装を解いた光秀一行は、この地にて三日ほど留まり旅の疲れを癒した。その間に敦賀半島の東岸や、港町などを散策した。敦賀は古くからの港町で、大陸との貿易が盛んに行われ、異国の様相を呈していた。越前朝倉氏の繁栄を支える重要な拠点で、金ヶ崎城を配していた。

敦賀にて、旅の疲れを十分に癒した光秀一行は、足を速めて敦賀湾の海岸沿いに越前府中に向かった。越前府中は朝倉氏以前、斯波(しば)氏が守護だった頃国衙(こくが)のあった場所だったが、朝倉氏が斯波氏を滅ぼし、その後一乗谷に、京の都を模した一大桃源郷(とうげんきょう)をき、当代朝倉義景は、京の公家の様態を模し、悦楽の暮らしに入り浸っていた。

越前府中で一泊した光秀一行は、京を発ってから八日目に、越前朝倉義景の居館のある一乗谷に入った。一乗谷の朝倉氏の城下町は、足羽川に合流する一乗谷川の両岸に、なだらかな傾斜に沿って開けていた。