桐の谷

若者が美事な桐の森があるという噂を聞きつけてその村にやってきたのは三日前のことでした。噂どおりでした。その村は、どこもかしこも桐の木でいっぱいでした。村人に尋ねると、遥か高い場所にそびえたつ岩山のどこかに一本の古い桐の木があるらしいということでした。そこから、何百年に渡ってまきちらされた種子が谷の村を桐の木でおおいつくしたのだといいます。

人々は最初その木で自分の娘たちの嫁入り道具を作りました。やがてその技術が近隣の評判となり、あちこちから注文が舞い込むようになりました。今では村人の多くが家具や楽器作りの職人となって生計を立てており、買い付けに来る人、見にやってくる人で賑わっていました。

若者は、岩山にあるというその一本の木について村人に尋ねました。しかし、誰も岩山まで登って、親の桐の木を探し当てた人はいませんでした。それはあくまで人々の間では幻の木、伝説の類の話にすぎなかったのです。若者は、ひとり厳しい岩山の道を登り始めました。その「木」は必ずあるに違いない、と信じたのです。そして、ついにわたしを見つけたのです。

その時、わたしの年齢は既に三百年を超えていました。長年の風と寒さのために腰は歪み、丈も高くはなりませんでした。しかし、雨や風や、雪に曝されたわたしの肌は雪のように白く輝き、緻密でした。

危険な岩山を登ってきた若者の顔は汗や泥で汚れていました。手も足も傷だらけでした。それでも若者の喜びは変わりませんでした。若者は何度もわたしの上に手を置き、あちこちから角度を変えて見てまわりました。そして、結局満足げにほほえみました。

私の傍で一晩すごした後、若者は立ち去りました。若者が去って行くのを見て、わたしは不安になりました。若者が何を考えているのか、わたしにはわかりませんでした。しかし、何かが起こるのだということを感じたのです。

美しい琴

数日して、若者は何人かの屈強な男たちを連れてもどってきました。そして、わたしを切り倒したのです。わたしはそのまま山から運びおろされました。そして当代一の琴造りの名工にゆだねられました。彼もわたしを見ると大変喜びました。涙さえ流しました。彼にとってわたしは一生に一度会えるか会えないような素晴らしい桐材だったからです。その日から、彼は精魂こめてその巧のすべてを尽くして、仕事に取りかかりました。

やがて、わたしは、一面の美しい琴になりました。わたしは宮廷に招かれ、楽士の若者と共にそこにすむようになりました。

夜でした。たくさんのきらびやかなともし火がともされ、美しく着飾った男や女が集まって、楽士のてもとにあるわたしを一心に見つめていました。楽士は、わたしの体に張りめぐらした十三本の絹の糸を次々にかき鳴らし始めました。はじめは緊張していた楽士の指がよどみなく動くようになり、そのようにしてわたしの思いを十分に伝え始めました。

※本記事は、2021年3月刊行の書籍『思い出は光る星のように……』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。