幸せな幼少期と悲惨な少年期

私が生まれたのは、享禄元(1528)年です。天文3(1534)年生まれの上様(織田信長様)より6歳ほど年上です。生まれは、美濃の明智の荘と呼ばれていた場所です。我が家は、源姓土岐氏の一族でした。私が生まれた頃、明智家の勢力は衰えていました。

しかし、家格が高いという理由もあり、私の憧れであった叔母は、斉藤利政様(後の道三様)へ嫁いでいきました。余談ですが、叔母が産んだ女の子が帰蝶(きちょう)様です。後に信長様に嫁ぐことになる濃姫様です。

父は明智光圀(みつくに)、母は越前竹田家から来たお牧の方で、私は、その長男として生まれました。幼名は、彦太郎と呼ばれていました。私には、弟が5人、妹が1人います。

私の家の前方には、庭があり、柿などの果物が植えてありました。柿は大好きでしたが、木登りは、あまり得意ではなく、小さい頃は秋になると木を揺らしながら、落ちてくるのを今か今かと待っていた記憶があります。庭の前は、川が流れており、そこでよく魚釣りをしていました。その先にはうっそうとした森が広がっていました。家の後ろ側には、田んぼや畑が広がっていました。戦用にと馬もいて、時には農作業を手伝っていました。牛もいたと記憶しています。

私は、小さい頃、話し始めるのが遅く体が弱かったこともあり、過保護に育ちました。物心ついてからは母親の隣の布団で寝ていたのですが、朝起きると必ず母親の布団の中にいました。何を着ればよいか、母親に全てそろえてもらっていました。魚の骨は、全て抜いてくれました。ぼーっとした子で、でこっぱちの頭でっかちで、少し太り気味だったせいか、いろいろな所で躓きよく転びました。

そのため、母は、私が外に遊びに行くと必ず後ろから付いてきて、見てくれていました。転ぶと私は「ぎゃー」と泣き叫ぶので、母はすぐに抱き起こしてくれました。

「大丈夫だよ。お母さんが見ててあげるからね。でも、どうしてこんなによく転ぶのかしらねえ」

幼少の頃の遊び相手は、幼なじみの“ひろちゃん”、隣に住んでいた3姉妹(名前は忘れました)、少し大きくなってからは、“くみちゃん”らで女の子とばかりでした。このような環境であったためか、私は、気が弱く優しく我が儘に育ちました。

遊びは、今でいう“おままごと”が多かったです。おままごとでの私の役目は、食料(草)の調達と川から水を汲んでくることでした。ひろちゃんが、作った(千切った)料理(生の草)を来る日も来る日も食べました。

「ひろちゃんの作った料理はおいしいね。今日は胸がスッとするよ」

「今日の料理は、酔っ払っちゃったよ。うへーお酒が入っていたのかなー、グーグー」

「うぅーお腹がいたいよー、今日は、お腹壊しちゃったよー、あぁーうんち出ちゃうよ。ひろちゃん助けてよー」

「うんちが出ても、ひろこが助けてあげるから大丈夫」

と言いながら、少し漏らすと、

「ぎゃーくさい! 彦ちゃんが、うんち漏らしたー」

と走って逃げてしまいました。その時は、うんちだけでなく涙もポロリと出てしまいました。

他には、どろんこ遊びが多かったです。土でまん丸の泥まんじゅうを作り、いかに堅くし、泥まんじゅうの周りをピカピカにするかを競争する遊びです。これは、いつも私が一番でした。勝利の秘訣は、牛糞を入れることです。しかし、その秘密は、誰にも教えませんでした。このどろんこ遊びの後、私だけ決まって手が臭くなるので、ひろちゃんからは、嫌われ、母からも、

「もうどろんこ遊びはやめなさい」と言われていました。

きっと周りの皆は、私の秘密に気が付いていたのだと思います。