「大体、人間が創造した科学で、自然界にあるものを造れるんか。それは不可能やろ。人間は何もないところからは、何も作ることはできひん。自然界にあるもの、自然界から与えられたものを変形・変質・加工するだけやないか。

鉄から刀や鉄砲という武器を作った。けど、鉄そのものは、自然界から与えられたもんや。人間が何もないところから、まず鉄という鉱物を作って、それから刀や鉄砲を作ったわけやない。科学の力で、地球や太陽をもう一つ作れるんか、不可能やろ。とにかく“自然”というものを畏敬すべきやと思う。

かの豪華客船のタイタニック号は、氷山に衝突してあっけなく沈没したやろ。当時の科学技術を結集して建造した大型客船なら、沈むことはないと思って過信してたんやろ。俺は、そこに、自然というものを軽視した人間の驕りというか、慢心といったものがあったんやないかと感じるんや。

科学は、確かに人間に大きな恩恵をもたらしたけど、人間が生み出した科学などというものは、宇宙というか森羅万象の中では、たかが知れたもんなんやと思ったりする。

自然の営みは神というもののなせる業なのか、自然界に存在するものは全て神が創造したのか、神は造物主なのか、そもそも神とは何なのか、神は存在するのかしないのか、いろいろ考えると、俺にはますます分からんようになってくる。

繰り返すようやけど、ただ人間は、人間の力を超越した自然の営みというものに畏怖を感じ尊ぶべきやし、自然を前に謙虚であるべきやと思う。そして、自然の恵みに感謝すべきなんや。それがこの世を生きていく上での、原点であるべきやないかと思う。

それと、自然の営み以外にも、人間の力を超えた何かが、世の中に存在するようにも思うと言うたけど、世の中の事象を見ていて、そういうものを感じることがお前らにもあるやろと思う。

搭乗予定の飛行機に、交通渋滞のために乗り遅れて、後続の飛行機に乗り替えたら、搭乗予定やった飛行機が墜落して、遅れたおかげで助かったようなことを聞いたことがある。遅れたのは、“神様のおかげ”で助かったなんて言うたりする。しかし、神が特定の人に、不幸や災いをもたらすわけやないと言うたけど、幸運も同じことで、神が特定の人に幸運を与えるわけではないと俺は思う。

何故、その人を遅らせたのか、神のなせる業という人もおるかもしれんし、単なる偶然にすぎないという人もいるかもしれん。けど、俺は幸福も不幸も神のなせる業とは思われへんのや。

もし神のなせる業なら、悪人ではなしに、なんで善良な人に不幸が訪れるのか、逆になんで悪人に幸運がもたらされたりするんか、説明がつかんやろ。そやけど、また、全てが偶然の積み重ねに過ぎないとも、よう断言せん。もしかしたら、そこに神の思慮として、ものすごい深い意味があるんかもしれんけど、今の未熟な俺には思いもよらんことやし、理解できそうにない。

天は、その人に耐えられないような苦難を与えないなどと言われたりするけど、さっきから言うてる趣旨から納得できひん。その言葉は、苦難に耐えて人間として成長しろという、励ましの意味として捉えるしかないように思う。

幸福も不幸も神のなせる業ではないなら、そもそも神は存在するのか、しないのか。神が存在するとしても、善良な人が苦しんでいる時にも、なぜ神はいつも沈黙しているのか。そもそも、神とは何なのか。俺には、この疑問は到底消されへん。

いろいろ考えてみると、頭がこんがらがってくる。茂津なら、全てのことは単なる偶然の積み重ねにすぎないと断言すると思うけど」

※本記事は、2021年3月刊行の書籍『海が見える』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。