記憶との対峙

そこで電源を切られたように視界は暗転し、気がついたときには、舟のうえに突っ伏していた。独特の浮遊感だけが残り、吐き気が腹の奥から込みあげてくる。

わたしはただただ困惑した。なんなんだ、今のは。舟が光を横切った瞬間、小学生だった自分に立ち戻っていたぞ。

「これはなんと奇妙なことでしょう。あなたは光を横切るとき、自分の記憶と対峙しなければならないようですね」

記憶との対峙だと。そんなことが起こるわけない。俄(にわか)には信じられなかったが、夢か現かを彷徨う浮遊感は本物で、わたしは船縁に体重を預けるようにへたりこんだ。吐くことだけはすまいと呼吸に専念する。

これが走馬灯という奴か。いや、落ちつけ。冷静になれ。そんなはずない。六文銭だって払っていないんだ。ここが三途の川のわけがない。こんなのまやかしに決まっている。これは夢だ、夢なんだ。

「子供というのは、えてして残酷ですよね」

あらんかぎりの力で頬を叩くわたしに向けて、男は励ますように語り始めた。

「意味もなくバッタの足をちぎったり、トンボの羽をむしったり。人間は年を重ねることで、慈しみや生命の尊厳を学習するのかもしれません」

それは生徒に倫理を説く厳かな教師のようだった。

「教科書を盗った行為はおろかですが、それも時効でしょう。敬ちゃんも、きっと赦してくれますよ」

絶句して振り返る。男はわたしの記憶を読みとっているかのようだった。

「なぜおまえが、敬ちゃんを知っている」

「あなたが記憶の欠片を拾いあげるとき、どうやら私にもあなたの記憶が垣間見えるらしいのですよ。どういう理屈かまでは分かりませんがね」

身体から血の気が引いていく。この世界では、わたしの記憶が男に伝搬(でんぱん)するらしい。

「そんな馬鹿な。絶対にありえない」

「否定したところでなにも始まりません。ここはひとつ、質問させてください。あなたはなぜ、無二の親友であった敬ちゃんから、教科書を盗んだのですか」

「そ、それは」

男は尋問ではなく、あくまでも素直な質問というニュアンスで尋ねてきた。だが真摯な質問なだけに、かえって答えに窮してしまう。わたしは必死に弁明を探した。当時の身勝手さを、どんな言葉で伝えれば理解してもらえるだろう。赦せなくて、眩しくて、吐き出せなくて。くすぶっていた子供時代の想い。

「なんと言えばいいのかな。たぶん、嫉妬だ」

「嫉妬、ですか」

「ああ、そうだ。わたしの子供時代は、無いものねだりの連続だったよ」

わたしは男の漕ぐ櫂の調子に合わせて話を進めていく。すこしずつ、けれど、絶え間なく。

「わたしが物心ついたとき、父親はすでに家にいなかった。母は多くを語らなかったが、親戚が言うには、風邪を拗らせてそのまま亡くなったそうだ。まだ医療がまともに確立していない時代だよ。自分に父親がいないという事実。それが影のように付きまとい、幼いわたしを寂しくさせた」

運動会や父兄会で、まわりの友達がしあわせそうに両親との輪を作るのを眺めるたび、胸が軋んだものだ。心の空洞から吹く孤独の風切音は、耳を塞いでも大声でわめいても、消えてくれなかった。

「そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、母は泣き言ひとつこぼさず明るくふるまった」

諫。あなたには母さんがいるわ。