明治初期のリーダー、経営者は「漢文」の素養を持つことで、近代日本語の欠陥を補いビジネス文書の論理性を維持していたのではないかと、私は推察します。

そして、明治以前の漢文的な素養が世代交代とともに失われていく中で、ビジネスにおける論理性は徐々に失われていったように思われるのです。

それを端的に示しているのが、海外からの新しい概念の取り込み方です。

現代日本の言語空間の、実業分野における不可欠な概念装置の数々は、明治期に外来語から翻訳され発明された漢字熟語に多くを負っていますが、それらは断片化された漢文だと言って良いでしょう。

漢字熟語は爆発的に日本人の語彙を増やしましたし、初見の専門用語でも、意味の理解を助けてくれます。

一方、今日のカタカナ外来語は、漢字熟語のような論理の埋め込みはなく、より情緒的に他の人と共有できているかどうかわからないイメージを喚起するものがほとんどです。

私たちが備える重層的な言葉の感性は、私たちの言語生活に広がりと豊かさをもたらしていますが、一方で日本語そのものが全体として「女性化」し続けており、論理的コミュニケーションを難しくしているのではないでしょうか。

言葉は生き物とはいえ、日本語には共有されている標準文法というものはありません。そして、専門分野ごとの固有の言い回しに頼っている状況では、社会におけるシビアな契約のネゴシエーションはなかなか成立しません。

言葉の意味を、社会として論理的に共有する必要があるのです。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『intelligence3.0』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。