序 ─ 嘉靖九年、われ自宮(じきゅう)し、黒戸(ヘイフー)の宦官となるの事

「だが、建文帝は亡くなったのではなく、一介の修行僧に身をやつして、脱出されたという言い伝えがあるのだ。そのとき、まだ七歳だった文奎(ウェンクイ)様も、父君に随身した」

その伝説は、きいたことがあった。

「文奎(ウェンクィ)様は、長ずるにつれ、彫像(ちょうぞう)に、卓抜な技量を、示されるようになった。壮年のころ、この大千佛寺(だいせんぶつじ)に庵をむすび、母の魂をなぐさめるために、発願(ほつがん)された」

「それで、この吉祥天像が」

「そうだ。文奎(ウェンクィ)様が、精魂かたむけてつくられたと、伝えられている」

いまの皇統からすれば、建文帝と文奎(ウェンクィ)太子は、傍流ということになる。しかし、歴史から抹消された人々であろうと、その人生が、無駄であるはずはない。

私は、おさない日、母をうしなった文奎(ウェンクィ)太子に思いをはせ、おのれの出自にかさねた。この美しい吉祥天の像は、非業の死をとげた母と、歴史から消された父への、祈りの結晶であったにちがいない。

佛殿の階下には、黄昏(たそがれ)の光のなか、海棠(かいどう)の、うす桃いろの花が揺れていた。

「歴史とは、悲しいものだ。人に知られることなく、時の波間に消えてしまった悲しみをおもえば、その重さに、圧倒されるような気分になる。しかし、われらは、その悲しみを超えて、咲かねばならん。この海棠(かいどう)のようにな。そなたは、花の声が、きこえるか?」

「え?」

「きこえぬか? 死の淵を乗り越えて、蘇生した人には、常人にはきこえぬ草木の声が、きこえるようになるというぞ。山川草木ことごとくが、佛法を説きつづけているというからな」

曇明(タンミン)師が、にこと笑った。

「蘇生できて、よかったな。貧窮しても死をえらばず、自宮でとどまったのは、生をたいせつにした証、佛のみ心にも、かなったことであろう」

「………」

餓死するよりはと思いつめて、やったことである。ほめられるようなことではない。だが、曇明(タンミン)師にそう言われたことは、うれしかった。

師は博覧強記、老住職の信頼もあつく、若い僧たちが一目おく存在であった。じっさい、何をきいても、たちどころに答えてくれた。智慧第一の、文殊菩薩のような人であった。

僧坊には経典、古典のみならず、幾山河を越えた、とおい異国のものまで、万巻の書物が、積みあげられていた。

「読書万巻を破っても、悟れぬ者がいる。一文不知のやからでも、悟る者は悟る。佛法は、知識ではない――うちの住職の、口ぐせみたいなものだ。経文ばかり読んでいると、悟ったような気分になる。しかし、その驕(おご)りこそが、ほんものの悟りをさまたげるのだ」

読書万巻を破る師がこんなことを言うとは……よくわからない。

「一個の人間が、いくら知識をたくわえたところで、如来(ほとけ)の境涯からすれば、しょせんは浅知恵だ。さかしらを捨てて、男も捨てた、そなたのほうが、出家などよりも、ずっと美しく咲いているのかもしれん」

「はあ」

ますます、よくわからない。

「もう動けるようになったのだ。せっかく寺にご縁をもったのだから、明日から、雲水らとともに、勤行に出るがよい」

「同行つかまつります」

ウン、ウンと、師はうなずいた。

「おお、太白(金星)が、紫禁城にしずむぞ」

ひときわ明るい星が、陽を追うように西の空に傾いて、鳳城に接しようとしている。

「見よ、天文が、そなたの道を示してくれている。あれは乾清宮(けんせんきゅう)のむこう、六宮(りっきゅう)の方角だ。そなたはきっと宮中に入って、天子ならずとも、九嬪(きゅうひん)のそば近くでお仕えできるようになるだろう」

「そうなれたら、いいのですが……」

「心配せずとも、そうなるさ。さあ、そろそろ中に入ろう。さむくなって来た」

星をちりばめた天蓋(てんがい)が、いまにも昏(くら)い地平を抱こうとしている。

天地は万物の逆旅(げきりょ)なり。

光陰は百代の過客なり。

子供のころ、うたい憶えた詩句がよみがえり、目の前の光景に重なった。

立ちあがろうとして身体をひねると、射すような痛みが、股間から脳天へとつきぬけた。あたらしく宦官となった者たちは、宮廷に入ったとき、有力な宦官(かんがん)の下に組み入れられる。これを、名下(めいか)という。

私も、はじめは李清綢(リーシンチョウ)の名下、食客となり、宮中における礼儀作法、慣習などを、徹底的にたたきこまれた。

李清綢(リーシンチョウ)師父は、壮年四十歳、色白だが、いかにもきかぬ気の強そうな顔をしていた。さきの正徳帝(しょうとくてい)の世には、侠気(きょうき)さかんな盗賊の領袖で、倭寇(わこう)の名を騙かたって、福建(フージェン)や広州沿岸を荒らしまわっていたという。

悪業つきて、とうとう官憲にとらえられ、死罪に処せられようとしていたところが、正徳帝(しょうとくてい)が崩御せられて「嘉靖(かせい)」と年号があらたまったとき、大赦がおこなわれ、罪一等を減じられて、宮刑でおさまった。

あやうく、一命をとりとめたのである。陰茎を切り取られるとき、ふつうなら、激痛をこらえきれず、蚕室(さんしつ)の端からはしまでのたうちまわるところを、李師父(しふ)は平然として耐え、つねと変わるところはなかったときく。

数カ月後、傷が癒(い)えてからは、泪をながして旧悪を詫び、一命を取りおいて下さった新皇帝に忠誠を誓い、大明帝国のため、粉骨砕身はたらくことを宣言した。これが、かたじけなくも玉聴(ぎょくちょう)に達し、宦官として、後宮に召し抱えられることになったのである。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『花を、慕う』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。