二人は腰を抜かさんばかりに驚き、覚栄は、

「もうこんな大身(たいしん)になっていたのか、やはりお主は儂が見込んだだけのことはある。左内これでお主の念願の道場が開けるではないか」

その後、原田左内は光秀から貰った金を元手に、六条室町の堀川沿いに空き家を見つけ、剣術の道場を開いた。荒法師覚栄は、確実に儲かるという博打の手法を会得し、辻博打によって小銭を稼ぎ、呑み暮れていた。覚栄は、光秀に貰った金貨は左内に進呈していた。

光秀は、天気の良い日は、時々一条や二条の内裏の近くや十三代将軍足利義輝の邸の付近などを巡り、仕官のきっかけを探していた。

その頃京は、第十三代将軍足利義輝が治めていたが、将軍とは名目ばかりで、三好三人衆や、松永久秀に牛耳られており、将軍側近として足利義輝を守護していた細川藤孝は、将軍の周辺を護るために、多少とも腕の立つ浪人たちを密かに囲っていた。

藤孝は、その郎党たちを左内の道場に通わせ、武術の腕を磨かせていた。光秀も時々道場に顔を出し、時々左内とも木刀を交え手合わせをしたが、左内の腕は光秀をはるかに凌駕(りょうが)していた。

そして春、弥生も半ば、光秀は京を去って近江から越前に向かった。

※本記事は、2021年3月刊行の書籍『明智光秀の逆襲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。