第二話  東日本大震災物語

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そして「卒業式」、「謝恩会」の翌日。

2011年3月11日(金)午後2時46分。

三陸沖を震源とする1000年に1度発生するかという国内観測史上最大の巨大地震が発生した。

私は職員室の自分のデスクで業務をしていた。

1階のみの職員室は今まで経験したことのない激しい揺れが容赦なく襲ってきた。私のデスクの引き出しは飛び出し、校舎内にいた生徒たちの悲鳴が聞こえ、学校の警報器が学校創立以来初めてけたたましく鳴り響いていた。

直ちに、普段実施している避難訓練通りに、避難指示を教職員が出し、安全地帯である校庭に生徒たちを避難させた。

庭にしばらく避難していたが、地震発生から1時間以内にマグニチュード7を超える余震と思われる地震が3度も起こり、校庭に立てられていた防球ネットを支えているコンクリート製の柱が今まで見たこともなく、こんなにも柱はゆらぐのかというぐらい激しく左右に揺れていた。

少し地震の揺れが落ち着いたため職員室に戻ったところ、職員が、巨大な津波が発生し、東北地方の街を飲み込む携帯電話からの映像を私に見せてくれ、大変なことが起きていると改めて自覚した。

夕方になり肌寒くなる前に、この年に男子野球部の室内練習場が土であったが、人工芝に張り替えていたので、平屋建てで倒壊の恐れもないということで、そこに移動させた。

日没となり、学校の敷地内は停電となったため、室内練習場は懐中電灯と職員の車からヘッドライトの明かりを灯しながら、自宅に帰れる生徒の対応に追われた。

結局、生徒80数名が帰宅できず学校に宿泊することになり、そのほかの生徒は公共交通機関が動かない状況であったため、車で迎えに来てもらい帰宅させた。その際、迎えに来た保護者の車が、信号も外灯も停電のため真っ暗な道路を走り、間違って道路脇の側溝に落ちてしまい、職員が救出するというような出来事があった。

私も深夜帰宅したが、停電で信号機のない道路を走ったのは初めてで、交差点では入念に注意を払い、やっとの思いで自宅に着いたのである。自宅は停電、ロウソクを灯しながら慣れない暗闇で普段の動きをしていた。

翌日、停電が復旧し、テレビのスイッチを入れ、写し出された映像は、一夜明けて壊滅的になっている街や大津波で襲われる街、そして津波で流された瓦礫の山々であった。

私はこの映像を見た瞬間、

―― 広島の原爆投下後の廃墟と同じじゃないか。

と、広島の原爆後の廃墟の映像と、今回の津波後の映像が、私の脳裏にオーバーラップしていた。

当初の気象庁の発表はマグニチュード8.8であったが後日マグニチュード9に変更され、宮城県では震度7を記録し、加須市は震度5強であった。

加須市でも半壊する家々があったり、配送センターの倉庫が全焼していた。

そして、翌日。

福島県大熊町、双葉町にある東京電力福島第一原子力発電所1号機の建屋が爆発を起こし、住民の避難指示の範囲を半径20キロ圏へ拡大。さらに14日午前、再び同じ場所の3号機で爆発があり、当時は核燃料がメルトダウンをしているとは発表しなかったが、真実はメルトダウンを起こし、目に見えない放射能を拡散していたのである。

「地震に津波、放射能と三重苦だ」

と、原発のある双葉町の人たちが悲痛の叫び声をあげていた。

福島原発が爆発を起こし、前年、香港で行った野球教室の香港の責任者キティーからメールが入った。

「ハマーコーチ すぐに逃げてください!」

と、私を心配してくれるこころ遣いに感謝した。

「加須市は大丈夫ですから、心配しないでください」

と即座に返信した。

しかしながら、

「政府は、福島原発は爆発を起こしたがメルトダウンはしてないと言っているが、メルトダウンしているんじゃないかなぁ。平成国際大学の女子硬式野球部員は若い女性なので、放射能で何かあってはいけない。落ち着くまで帰省させよう」

と、高知県、島根県、大阪等の遠方の学生に至急帰省するようチームに伝えたが、その前に何人かの学生はすでに帰省しており、女性の自分の身を守る感性に感心していた。

そして気になっていた学生がいた。

来月の新年度に平成国際大学女子硬式野球部に入部する予定の、花咲徳栄高校を前日卒業した内田沙和子であった。第1回の香港遠征にも選手として一緒に参加していた。

内田は宮城県・仙台市の出身で、加須では下宿生活をしていたが、卒業式の当日に両親と共に仙台に帰省していたのだ。

震災後、彼女の携帯に連絡を入れるが連絡がつかない、何回も呼び出すが携帯がつながらない。心配で心配で、しかたなかった。

数日後、私の携帯電話に無事を知らせるメールがようやく届いた。

やはり、強い地震で自宅が半壊し、危険であったため自宅を離れ自家用車の中で家族と共に寝泊まりをし、避難生活をしていたという。

(車の中とはいえ寒く、余震が続く中、怖い思いをして夜を過ごしたんだ……。)

大地震発生後、市民生活は大混乱となり、鉄道運休、道路渋滞、店舗休業、ガソリンの供給が滞り、ガソリンスタンドに車が長蛇の列をなし長時間待たされていた。

しかも政府は電力供給が厳しいという理由で、地域ごとに計画停電なるものを実施し、加須市もその影響を受けしばらくロウソクを灯し、電気のない不便な生活を強いられると共に、電気がなくても生きていける術を考えなければいけないと思っていた。

※本記事は、2017年12月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク2 旅の果てに』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。