二〇二X年 夏

くねくねする右腕

子供たちが元気良くキリンの首を滑り降りています。親たちは小さな液晶画面の中にある自分だけの世界に浸っていました。

そのとき、大阪万博のマスコットキャラの『バンパ君』がキッズ・パークに現れました。子供たちを追いかけてキャアキャア言わせています。バンパ君の額につけている金属製のメダルが光を反射して輝きました。

ちょうどあの子らの年頃に自分も『EXPO(エキスポ)’70』だったよなあ、と昔を懐かしく思い出しながら、彼らの動きを目で追っていると、急に私の右腕がおかしな動きを見せました。手は握ろうとしても力が入らず、指先が痙攣(けいれん)しはじめたのです。

小刻みな震えは次第(しだい)に大きくなって、原因不明の不随意(ふずいい) 運動へと発展しました。左手で押さえつけましたが止まりません。こんなことは初めての経験であり、何が起こったのかわかりませんでした。

「なんだ、これは」

やがて右腕は押し寄せる波の真似をするようにくねくねしはじめました。私の身体に尋常(じんじょう)ならざる何事かが起こっています。

「止めて、誰か止めてくれ」

私はなかばパニックに陥(おちい)りました。何か重たくて冷たいヘラのような物が脳味噌を圧迫しています。急にすべての物が立体感を失い、まるで偽物 であるかのように思えました。私は何者かに乗っ取られようとしているのでした。

私が私である自信がなくなってきて、次第に現実味は遠のいていきました。ままならぬ右腕が益々増長して暴れ、潰れかけた喉は獣のような唸(うな)り声を発しています。

「どうしました、大丈夫ですか」

制服姿の警備員が飛んで来ました。隣にいた若い夫婦が呼んだようです。

「いえ、すみません。なんだかちょっと手がおかしくて」

私の右腕は相変わらずテーブルの上でのたうっています。

「どこか病気なんですか、医務室へ行きますか、それとも救急車を呼びましょうか」

泡を食った若い警備員が矢継(やつ)ぎ早(ばや)に聞いてきます。彼の垢染(あかじ) みた制服は強い汗の臭いをさせていました。

「いや、どれも必要ありません。ちょっと休んだらすぐに治ると思いますので」

警備員からの親切な申し出を、私は毅然(きぜん)として拒否しました。早く帰らないと母が首を長くして待っているはずです。母は依怙地(いこじ)な便秘持ちであり、今朝来がけに飲ませた常用薬に、軽い下剤を仕込んでおきましたので、帰ったら排便の介助をしてやらねばなりません。所謂(いわゆる)、摘便(てきべん)です。

これは子供の頃、私も母にやって貰っていました。肛門を塞いだ蓋便(がいべん)を指でほじくり出すのに使う、グリセリンやベビーローションもさっき買ってあります。下剤の効いてくる時間が迫っているので、これ以上遅くなる訳にはいかないのです。

しかし、右腕は複雑な動きを見せて蛇行(だこう)しています。これがこのままずっと続くようならどうしよう、と怖くなりましたが、まだそのときはちっとも痛まないので、たいしたことはなかろうと高(たか)を括(くく)っており、まさか自分が深刻な病に冒(おか)されていようなどとは、夢にも思っていませんでした。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『金の顔』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。