男の子の子育ては、わからないことが多くて、悩まされることが多かった。けれども、その分、面白かったし、その醍醐味は十分味わわせてもらったような気がする。

どこの家庭にもそれぞれ違った子育ての方法があるだろうが、我が家の子育ての手法にも、いつの間にか独特のパターンが生まれた。サラリーマンではない我が家では、家庭の中に夫の仕事場があり、彼は忙しさの中にあった。仕事の仕上がりを待っているよその人が、始終来ている状態だったため、直接私的な相談がしにくかった。

もし夫が子育てにあまり関心がない人ならば、おそらく私は自分一人のやり方で子供のしつけをしていたと思うのだが、彼は子供を大切に思う人だった。そのため、私は、子供とのやり取りは、仕事をしている夫に聞こえるように意識的に話をした。子供たちを誉めたり叱ったり諭したりしている自分の声を聞かせるようにしていたのだ。

それを聞いている夫は、私のやり方、言い方に納得や同意をしている場合は、何も言わないでただ聞き流していたが、子供が、母親に言われたことを理解していない、あるいは了解していないなど、フォローが必要だと思ったときは、仕事の手が空いた時に、その子だけを誘って散歩に出て行った。

そして、私が叱った後は特に、子供の感情が落ち着くのを見計らってから、静かに私の真意を、言って聞かせてくれたのだ。

機嫌よく帰ってきた子供に話を聞くと、

「お父さんと一緒に喫茶店に行って、バナナジュースを頼んでもらって飲んだ」とか、「オムライスを食べてきた」

とだけ嬉しそうに話したが、父親が言って聞かせたことは抵抗もなく、その子の気持ちの中に入っているようだった。夫は、忙しいにもかかわらず、子育てに関して重要な役割を果たしてくれたと思う。私の狭量な点をカバーしてくれたと感じている。

私達は互いの役割について、改まって取り決めなど、したことはなかった。ただ、子供を一緒に育てるという共同作業をしてきた結果、いつの間にか、そんなパターンが生まれた。

夫は子煩悩だった。毎日忙しくしていたが、子供たちが学校に上がってからは、一年のうちで、学校の夏休みは、子供と付き合うことを決めていたようだ。特に毎年八月は仕事を止めて、子供達のために予定を立てていた。キャンプやハイキング、漫画映画、遊園地、海やプールなど。早い時期から新聞などで情報をチェックしていた。

キャンプにはJRを乗り継ぎ、毎年琵琶湖の西側の比良山へ登った。小さいときは、三人の子供たちには身にあったリュックサックを手作りして、それぞれ自分の下着や荷物を持たせた。少し大きくなってからは、既製品の大きめのリュックに自分のもの以外の食料品などの荷物も負担させた。フラフラしながらも頑張って担いでいた姿を思い出す。

比良山の山上へは、ゴンドラに乗って上がるのだが、頂上で、ゴンドラを降りると一面にオレンジ色のニッコウキスゲが咲いていて、真夏だというのに涼しくて、何日でも滞在したくなるような気持ちのいい場所だった。

夫は子供たちと遊ぶことに徹していた。多分子供たちの心には、今でも幼い頃の楽しい思い出として残っていることだろう。

八月の最後の夜には、必ず皆で外に食事に行った。これも夫の提案だった。

「夏休みは今日で終わり。明日からは、また学校が始まるが、一生懸命勉強しなさい」

子供達にそう言って、夏休みと新学期とのけじめをつけさせていた。自分自身もまた、来年の七月まで、子供達のために頑張ろうと気持ちを切り替えていたのだと思う。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『乙女椿の咲くころ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。