第1章 導入

第2項 2017年5月20日

2017年5月20日。私のみならず、多くの将棋ファンにとって忘れられない日付となったことだろう。一頃昔に流行った問いかけがあった。

「人生はゲームか。」

時を経て棋士に、応える義務が課されている。

「ゲームは人生か。」

私が本稿を書くきっかけとなったのは、その日に行われた第2期『電王戦シリーズ』第2局。結果は、「将棋人工知能ソフト・PONANZAに名人が敗れた」とされる。長きに渡り行われた『電王戦シリーズ』にあって、初めて棋界の現役のタイトル保持者が、ましてや棋士を代表する名人が人工知能と遂に対峙するとあって、本局は棋界や将棋ファンの範囲を超えて広く大きな注目を集めていた。

私は仕事終わりに、深夜の行きつけのバーでL字カウンターの端席に座り、スマホの画面で再現棋譜を眺めた。戦いは第1局と同様、中終盤の入り口辺りで終わっていた。互いの王様に明白で重大な危機がさし迫っているわけではないが、プロの目からはもはや大勢に大きな差がついているという。そして人工知能は仕損じない。

ふと、最後の将軍、徳川慶喜公が私の脳裏に浮かんだ。慶喜公は初代将軍徳川家康以来の名君の器質を持つと言われながらも、戦場であれ政治の場であれ、どこか淡白なところがあった。“両雄の雌雄を決する戦いなら、最終盤まで戦い抜く姿が見たかった”と、その時は思った。

“これを歴史の転換点とするならば、もう最高峰の将棋、最先端の将棋は躍動する棋士の姿を通じて棋士の姿と共に観ることは叶わないのだろうか。”

心情は一将棋ファンとしての痛切な哀しみに始まり、それから布に落ちた水滴が面に染み渡るように、自分の存在をも脅かされるような得(え)も云(い)えぬズシリとした重味で私の心を深く沈めた。最初に棋士が人工知能ソフトに敗れた時はモニターで鑑賞する会場の客席から啜(すす)り泣く声も聞こえたというのだから、この日の私の深刻な揺らぎはきっと、私だけの事ではなかっただろう(maybe, us, too)。

この対局は、人工知能の対戦相手を決めるトーナメントで名人が優勝したため組まれたものであり、例えばチェスに於けるガルリ・カスパロフ対ディープ・ブルーのように必然的に用意された大将戦とは趣を異にした。謂わば成立の経緯に成り行きの要素があった。

名人は棋界の権威そのものであり、潔い終局も致し方ない面もあったかもしれない。そもそも、棋士は人工知能と対戦などすべきでなかったかもしれない(「ろくなことにならないよ」という趣旨を故大山康晴十五世名人は述べたという)。

しかし、とにも棋界は単なるイベント以上の何かを賭けて、人工知能との勝負を受けてしまった。ともすれば行き掛かり上、他の棋士から有志を募り、江戸城開城後の奥羽越列藩同盟から五稜郭さながらに、もはや勝ち負けの如何(いかん)を超えて、謂わば“人間の将棋の意地”として最終盤まで指しきる、そんな場を最後に設けるべきではないだろうか。

その時の私はそう、考えた。私の最も尊敬する棋士に宛ててその趣旨を訴える手紙すら書いた。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。