タイ・ルー族が住むシプソンパンナーのとある村で、蒸留の器機や発酵中の瓶も見せていただいた後、タイの北部料理にも似た雲南地方の手料理とともに手作りの米の蒸留酒をご馳走になった。

お土産として小さなガラス瓶に入った焼酎は、大事にバンコクに持ち帰り、当時の日本貿易振興機構(JETRO)所長他とともにインドシナ地域の他の焼酎と飲み比べ会を開催した。

日本料理屋で開いたその焼酎の品評会は、焼酎の強さも手伝ってか、次第に呂律(ろれつ)の回らない品評会となってしまった。「おもろうて、やがて悲しき……」

「閣下、今夕乾杯用として用意させていただきましたこのお酒は泡盛と言いまして、タイから輸入したお米(砕米)で作られた蒸留酒です。この泡盛の作り方は、今から五百年前のアユタヤ時代にタイから沖縄に伝わったと言われており、我が国とタイの間の長い交流の歴史を現代に伝えるものであります……」

一九九七年、日本を公式訪問したチャワリット・タイ首相の歓迎夕食会の席上、ホストの海部俊樹首相はその様なスピーチを行い、タイ首相と泡盛で乾杯したと仄聞(そくぶん)している。

それから、何年たったことだろうか。現在、銀座、新宿等都内の盛り場では、日本酒ではなく、焼酎を中心とした酒屋・バーが雨後の竹の子の様に増えている。蒸留酒の生産量も、既に日本酒のそれを凌駕したとも聞いている。

東京駅の丸の内から八重洲に抜ける地下街にも、焼酎専門店が店を出しており、多くの買い物客で賑わっている。銀座の瀟洒(しょうしゃ)なバーのカウンターに腰掛け、ギャルが焼酎のグラスを手にアフターファイブを楽しんでいる姿を誰が想像したことだろうか。

二〇〇五年、バンコク市内トンロー付近の日本料理屋のカウンターに座り、御朱印船時代に沖縄に入って来た蒸留酒はいったいどんな味がしたのだろうか? タイの糯米(もちごめ)からタイで作られた芳醇な泡盛に酔いながら、朦朧としつつある頭で考えていた。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『タイの微笑み、バリの祈り―⼀昔前のバンコク、少し前のバリ― ⽂庫改訂版』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。