長男がやっと三、四歳になった頃、息子に対する期待度の大きい父親は、自分の好きな阪神タイガースのユニフォームと同じデザインのTシャツや、帽子を買ってきて長男に与えた。

テレビで見たことのあるタイガースの帽子を、息子は殊の外喜んでかぶって見せた。それから何日もしないうちに黄色いバットやボールなど幼児向けの野球グッズが揃えられ、親子で野球ごっこが始まった。

息子は黄色と黒の野球帽をかぶり、タイガースのTシャツを着て、黄色いバットを握った。ただでたらめにバットを振り回す息子に対して、夫はバットに当たるようにゆっくりボールを投げた。

ボールがバットに当たることは、当然、ほとんどなく、息子はその都度、夫に、「お父さん、へたー」「お父さん、へたくそー」と、大声で言い放った。

夫はそう言われながら、嬉しそうに笑って、何度も何度も同じことを繰り返した。時々ボールがバットに当たることがあると、息子は万歳をして、歓声を上げた。この様子を見ていて、これが子供を得た夫の至福の時なのだろうなと、夫の心根を想像した。

この長男が六歳くらいになった頃、近くにあったお茶の販売店へ、一人でお使いに行かせたことがある。大好きなタイガースの帽子をかぶりお金を握って出掛けて行った。幼い子供のお使いをほめてくれた店主が、商品を渡す時に、棒の付いたキャンディーを二本一緒にくれた。

嬉しくてウキウキしながら帰ってきた息子は、自慢そうにそのことを報告した。その時、家には彼の姉と妹がいて、二人はその話をじっと聞いていた。彼は、自分は三人兄弟で、二本のキャンディーでは足りないことには気が付いていたようだった。

どうするのか見ていると、思い掛けず、「これ、あげる」と言って、姉と妹にキャンディーを一本ずつ手渡した。自分も欲しかったお菓子だったのだが、彼女たちの前で羨ましがらせて一人食べることができない息子だった。

その分、彼女たちの食べるところを、指をくわえて見るのもつらいのか、「僕、遊んでくる」と言って、帽子をかぶりなおして、そのまま、外に飛び出して行った。その様子を見ていて、彼が少し可哀そうな気はしたが、黙って見過ごすことにした。

そして、別の機会に、姉と妹がいない時を見計らって、あの日の彼の優しさを誉めてから、買ってきておいた同じキャンディーを与えた。息子は飛び切り嬉しそうな表情でそれを受け取った。幼い子供には、自分を抑えることや、人にやさしくすることを学ぶ機会があるものだ。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『乙女椿の咲くころ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。