(えっ、動けるの?)中井の思考回路はパンクする。強打もダメ、軽打もダメ。正々堂々戦えないし、姑息な手段も使えない。そんな言葉が頭の中をぐるぐる回っているうちに次のリターン。中井は何が何だか分からなくなってしまい、デュースからの二ポイント、とんでもない低いネットと、とんでもないアウトボールのリターンミスで、ブレイクのチャンスを逃す。そして遂に、遂に、カラスは打球だけでなく、ゲームカウントも追いつく。《5-5》ファイブオール。

気持ちの整理がつかないまま中井のサービスゲーム。サーブは精神状態が最も反映されるショットだ。中井はトスが上手く上げられない。ラケットが振れない。スイートスポットに当たらない。相手コートに全く入らない。何か変だ。いままでのミスとは種類が違う、次元が違う。会場は混乱し、異常なざわめきと、溜息が入り混じる。「イップスだ!」声にならない声が場内に、同時多発的に発せられた。そうだイップスだ。その単語はじわじわと、静かな津波の様に会場中に伝播する。中井は間違いなく正真正銘の、典型的なイップスになっていた。

当然といっていいだろう。中井はこのゲームを落とす。内容は三つのダブルフォールト、一つのリターンウィナーだった。カラスリード《6-5》シックスファイブ。内容が悪すぎる。もはや日本人観客で中井の挽回を期待する者は誰一人いなくなってしまった。次のゲームはカラスのサービングフォーザマッチ。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『センターコート(上)』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。