中井は会場内の雰囲気の変化を感じないではなかったが、それでも相変わらず同じ戦法で第六ゲームを取った、いや、取ってしまったのである。ゲームカウント《5-1》ファイブワン。次のゲームはチェンジコート無しで中井のサービングフォーザマッチ。中井は勿論このままの勢いで試合をあっさり終えるつもりだった。

だが第七ゲームの最初のサーブを打つ前、トスを上げる際のルーティーンであるバスケット選手が行うドリブルの要領の玉突き(中井の場合は四〜五回)の最中、リズムを崩される予想外の事態が起こった。中井の真後ろの席からだった。声援とも野次とも取れない、だがはっきりとした口調の、まぎれもない日本人の日本語でこう発せられた。

「なかい〜! 正々堂々とやれ〜!」

会場がどよめいた。中井も今度ははっきりと聞き取った。一連の、静かに流れる時間が遮断され、トスの前に行う中井の玉突きの手が止まる。刑事ドラマの取り調べシーンで、それまで流暢に話していた犯人が動かぬ証拠を突き付けられたり、図星を突かれると一瞬言葉を失うのと同じだ。

中井の手が止まったのは潜在的な後ろめたさをその一言で暴かれた事に他ならない。さらに中井の動揺に追い打ちをかけたのはその僅かの間に、間違いなくチェコの応援団とは別の、日本人の観客席からパラパラと拍手が起こった事であった。

最初からルーティーンをやり直したがもう元通りに治まらない。第七ゲームの第一ポイントは、中井のダブルフォールトから始まる。

チェコの応援団が色めき立つ。本来はマナー違反だが、敵選手のミスを喜ぶ声援が、このポイントで極めて明確になったのである。さらにさらに中井に追い打ちをかけたのは、このマナー違反に一部の、いやもはや一部ではなくなったかなりの日本人観客が後押しをした事だった。

その後のポイントで、中井はファーストサーブが入らない。

すべてセカンドサーブからのスタートだったので、カラスはストローク戦に持ち込む事ができるようになってきた。会場は、中井がドロップショットを用いる事を許さない荒れた雰囲気になっていた。本来は静寂であるはずのポイント間で「ズルすんな〜」「ちゃんと打ち合え〜」といった声が聞こえ、遂には「カラス頑張れ〜」と声援を送る者さえ出てきた。

結果中井は無理なフルショットが祟りアンフォーストエラーを重ね、まさかまさかのサービスダウン。カラスは命拾いをした形となり、チェンジコート。だがそれでも今この段階では、ゲームカウント《5-2》ファイブツーで中井有利である事に変わりはなかった、はずだった。

第三セット。中井は自分を見失う。

チェンジコートの間、チェコの大合唱が始まった。会場のもう一つの主役になっていた。観客はプレーヤーだけでなく、応援団の一挙手一投足に注目していた。彼らを好意的に迎え入れたのである。

穏やかでないのは中井だ。中井は相手選手のカラスは勿論その応援団、ましてや味方であるはずの日本人の観客とも戦わなければならなくなってしまった。所謂アウェー状態であるが、プロの(この時の中井はアマチュアであったが)プレーヤーにとってはよくある事だった。

中井はアウェーの戦い方を知らなかった。中井は本当に戦うべき相手に目を背けていた。これこそが中井の敗戦の真の理由だった。ただこの時の未熟な中井に、その理由を知る由も無い。

中井が最初に、そして最後まで戦うべき相手は、カラスでもそのサポーターでも無責任で気まぐれな観客でもない。中井が戦うべき本当の相手は自分自身だったのだ。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『センターコート(上)』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。