歌えて初めて、あるいは踊れて初めて受け入れてもらえる。

ここには、そんな暗黙のルールがあるようだ。「ここにやって来る」それなりの態度と心構えを持っているのかどうかを試される。上手いとか下手とか、レベルの問題ではない。極端な話、耳を塞ぎたくなるほど下手な歌でも、目を覆いたくなるほど下手なダンスでも、それが好きなら物怖じせずに堂々とやってのければいいのだ。

多くの日本人は表現下手だと感じるときがある。

日本には「恥じらい」や「趣」、「節度」を美とする文化があるからなのか、好きなものに対して、自然と沸き立つ感動や興奮を素直に言葉や身体で表現することが、あまり得意ではないのかもしれない。しかし、自分の豊かな感情をさらけ出すことによって、相手と心が通じ合えるということもときにある。

Sのお父さんが相変わらずの無表情でこちらにやって来た。

「踊ろう。」

小さな声で私に言った。

私はお父さんと少し距離を保ちながら、ゆっくりと身体を揺らす。お父さんは仏頂面だが、私と呼吸を合わせるように軽やかにステップを踏んでいる。背筋を伸ばし、スマートに品よく。少しずつ人が減っていく。

一晩中、飲み明かし、踊り明かしたあと、酔いも興奮も冷め止まぬ間にそれぞれ家路に着く。ハウス・パーティは朝方まで続いた。

部屋に明かりが点く。誰かが後片付けを始めれば、誰彼ともなくそれを手伝う。

「楽しめたかい?」とパーティの主催者であるご主人。

床に散らかったゴミを集め、部屋の掃除を行っている。

「はい。とても楽しかったです。ありがとうございました」

「それは良かった。また来いよ。」

ご主人は満足気に胸を張った。奥さんは、料理の残りものを整理している。

「あなたはちゃんと食べたの?」

「いいえ。食べたいと思ったんですが、人がたくさんいたので」

「まだ少しあるから食べなさい」。そう言って、皿にスープをよそってくれた。

「ありがとうございます。」

私は椅子に腰かけ、スープを啜った。

「どう? おいしいかい?」

「はい。とてもおいしいです」

「そうかい。もっと食べるかい?」

ろくに夕飯を済ませていなかったことを思い出した。

いまになって腹が減ってくる。私は遠慮なく2杯目を頂いた。

スープはだいぶ冷めていたが、心は温かい。ハウス・パーティ。

世代は関係なかった。

ただ、音楽と人とのつながりを大切にしている人たちがこの場所に集まった。
 

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『HOOD 私たちの居場所 音と言葉の中にあるアイデンティティ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。