中井①

決勝。試合開始直前。会場は超満員、とはならなかった。

その日東京には台風が接近していた。有明は交通の便が悪い。天気予報の情報を採用すれば、試合そのものを行っている間の影響は無さそうである。

だが実際には試合終了後の帰宅中の交通障害を憂慮し、観戦を敬遠する者が少なくなかった。

五〜六割程度の入りであろうか。それでも主催者は断腸の思いで予定通りの開始を決定する。中止にした場合の挽回案が無かったのだ。

屋根が閉まった有明のメインコートは、どんよりとした重い空気に圧し掛かられていた。不思議なもので完全なナイトセッションならば、コートはライトに照らされそれなりの輝きがあるのだが、曇天の閉ざされた空間ではそれがない。

しかも空席が目立つ疎らな観客席は、テレビ中継で最も好ましくない場景であった。プロデューサー、番組ディレクター、その他のこの大会に関わる所謂裏方全員が、絵に描いた様に苦虫を噛み潰したような顔になっていた。

頼みの綱は中井だ。中井がストレートで、しかも短時間で完勝する事が唯一の中和剤だった。

中井はタイブレークで第一セットを落とす。ストローク戦になった。中井は自分のサービスゲームは何とかキープしていたが、相手のサービスゲームがブレイクできない。

カラスのショットは決して一発でウィナーを取れるほどの鋭いものではないが、とにかく深い、とにかくしつこい。両者譲らずキープが続きゲームカウント《6-6》シックスオール。タイブレーク。

サービスセーブが続いてポイント(4-3)フォースリー、カラス。ここで中井が焦れてサービスダッシュ。カラスはこれを待っていた。リターンを足元へ沈める。

中井は何とか返球するも、力の無い浮いたボールに。カラスこれを見逃さず両手バックハンドのクロスのパッシング。中井はラケットを伸ばすも届かず。ミニブレイク(5-3)ファイブスリーカラス。

緊張していた。追い詰められていた。中井は明らかに精神的な動揺からダブルフォールト。(6-3)シックススリー、カラス。

セットポイント。ここしかないと踏んだカラスは集中力を最大限に高め、この日初めてのサービスエース。ファーストセット、カラス。ゲームカウント《7-6》セブンシックス。

予想外の展開に、会場はざわついていた。明らかに中井は落胆していた。精神的に、という観点のみでは最悪の状態だっただろう。

確かにこの時点では会場全体に漂う空気は中井ストレート負けのイメージに包まれていた。しかし……。中井は第二セットを取り返す。中井の戦闘意欲を首の皮一枚で踏みとどまらせていたのは、体力面だった。

確かに劣勢にはなったが試合に負けた訳ではない。もう立てない、もう動けないという程の疲労感は無かった。しかも中井を勇気付けたのは、セットを取ってもっと喜んでいいはずのカラスの表情だった。

セットインターバルの終わりかけ、つまり第二セットの始まる直前、俯いていた顔をふと横に移すとカラスは笑っていない。苦悩の表情でしかも肩で息をしている。連戦の疲労の蓄積が、ここへ来て顕在化しているのだった。

加えてカラスにとってのマイナス材料は、その表情、その息遣いを最も間近の中井に悟られてしまった事だった。

第二セット。中井はストローク戦に付き合わない。第二セットの中井の戦略は徹底した揺さぶりだった。左右ではない。前後に、である。具体的にいうとドロップショットとロブショットの組み合わせだった。