第一部

時は明治二十六年、師走も間近に迫った十一月末のある日の夜明け前のこと。晩秋の遅い夜明けで辺りはまだ暗闇である。よほど目を凝らさないと辺りは見えない。

そんな薄暗い道を、一台の荷車を引く男とその周りを囲む数人の男女の姿があった。荷台には、ひとつの行李と小さな収納箱、それから寝袋が乗せられ、みんなただ黙って周囲に気を配りながら荷車を引き、押し、そして、後をついていく二人の女性。

出発してからもうかなりな時間が経っているようだった。荷車を引く中年の男が突然歩を止め、やや疲れた声で言った。

「もう、ここまで来れば、大丈夫だろう。一休みしようか」

「いいや、まだ知った人に会うかもよ。休むのまだ早いわ」

荷車の後からついていく奥さんらしい女性が心配げに急かすように声をかけ、そして、再びゴトゴトと動き出した。

それから一時間ほどでこぼこ道をゆっくりと進み、なおも薄暗さの残る午前六時頃、一行はやや上り坂にかかり、しばらく行くと、大きな河の堤防にたどり着いたのであった。高梁川の岸辺である。

ここは山陽道の川辺宿。現在の倉敷市真備町川辺にある川辺大橋の西岸に位置する辺りだ。

高梁川は、岡山県西部を南北に縦走する一級河川で、鳥取県と岡山県の県境となる花見山東山麓(新見市)を源流とし、中国山地から吉備高原を貫き、新見、高梁、総社、倉敷、水島、玉島の各市を経て、瀬戸内海に注ぐ大河である。明治の頃までは、高瀬舟による水運が通じており、経済の大動脈としても重要な役割を果たしていた。

しかしながら同時に、流域に流れ込む多くの支流を持つことから、洪水を起こすことも多く、中でも、現在の真備町周辺の高梁川はしばしば水害に見舞われていたのである。そして、この明治二十六年の秋には、秋の長雨が続いた後に超大型台風が襲来し、九州と西日本一帯にかつてない規模の風水害をもたらしたのであった。そして、ここ備中でも高梁川が大規模な氾濫を起こし、川辺村一帯に大水害が発生した。そういった水害後の高梁川の岸辺に辿り着いたわけである。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。