産まれてきたしるしが何もないのが哀れだった。その上、担当の医師が不用意な言葉を吐いた。「戸籍が汚れなかったのはよかったです」私は、それまで、戸籍が汚れるという表現があることも知らなかった。それは元気な赤ん坊を産ませることができなかった医師の、後ろめたさが思わず言わせた言葉だったと思う。

しかし、十月十日無事なお産を願ってきた母親に対して、生きて産まれた後に死亡するより、死産でよかったと言っていた。医師の無神経さに憤りを覚えた。胎児の死に関して、自分には、医師の処置に対する不満も、言い分もあったが、言ってもどうにもならないことなので、黙っていた。

それ以上気持ちのやり場がなくて、お産の翌日ではあったが、退院を申し出て病院を離れた。心身ともにまいっていた。家でゆっくり休もうと思って、帰宅後すぐに二階の寝室に上がった。

部屋に入ってすぐ目に入ってきたのは、片隅に置いてある淡い黄色のベビー布団だった。退院したら寝かせるつもりで買っておいた赤ん坊用の寝具だった。男の子でも女の子でも、どちらが生まれてきてもいいように黄色を選んだ。お産の前の楽しい買い物だった。

『病院から抱いて帰ってきたら、この布団に寝かせるはずだったのに……』この腕に赤ん坊がいないことを実感した。空しくて、座り込んで涙を流した。産後、近所に出掛けると、細くなった私を見つけて、皆、異口同音に聞いてきた。

「赤ちゃんできたの? おめでとう」「男の子? 女の子? どっち?」説明するのがつらくて、誰にも会いたくなかった。

そこで、六時間授業の和裁教室を見つけて通い始め、一日中家を空けた。教室ではただ黙々と縫物をし、家に帰っても、夫が帰るまで、その続きの課題をどんどん進めていった。あの頃は、我を忘れて裁縫に没頭できることが救いだった。お蔭で、一年間で、和裁は袷も帯も羽織も雨コートも一通り縫えるようになった。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『乙女椿の咲くころ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。