私は、友人たちとここに招かれ、ひたすら歓待を受けながらお祭りを楽しませていただきました。招待していただいた知人によれば、ここで一年間の貯えを全て散財する習わしなのだそうです。私たちが受けた一方的な歓待は、目いっぱいに散財する助けになっていたというわけです。

細い路地を最も重要な骨格とする石崎の集落は、奉燈祭という夏の満月の晩の、自分たちが楽しむための祭りに向けて最適化されていると言えます。(図2)

図2:石崎の集落と奉燈のルート

まちづくりの見方からするとなんとも型破りなのですが、金沢や遠くは東京へと出て行った七尾出身者がこの時だけは何はともあれ地元に戻るという名分にもなっています。石崎在住者にとっては、祭りへの参加は仕事よりも優先すべき事柄です。楽しみであると同時に、コミュニティへの緩やかな義務でもあります。彼らにとっては、祭りへの参加は故郷との関係の有効期間を更新する重要な行事なのです。

出身地から離れて過ごす時間が増え、生活において、その場所での給与所得の比重が大きくなるに従い出身地のコミュニティとの繋がりは薄くなっていきますが、故郷との繋がりは、いざという時のセーフティネットにもなるわけですから、お金には代えられない資産でもあります。

地域における雇用の創出は地方創生において、ゴールとして必ず掲げられるテーマの1つです。ここでの雇用とは給与所得を得る手段と言い換えてもよいでしょう。

しかし私には、活気のある地方の実像は、給与所得をもたらす「雇用」とはどうも結び付きません。給与所得だけで生活の糧を得るライフスタイルは、都会的(東京的)なライフスタイルなのではないでしょうか。そして給与所得の比重が増えれば増えるほど、地域コミュニティとの縁は薄くなっていくように感じます。

地方に移住した人が苦労するポイントの1つが地域コミュニティとの付き合い方にあると言います。地方で暮らしてゆくためには、地域が提供する社会サービスに頼らなければならない部分がどうしても生じます。

田舎暮らしのメリットに物価の安さ、必要な現金出費の少なさが挙げられますが、それは、社会サービスを受けるためには現金以外のもの、付き合いやおすそ分けといった労務や物品の交換の輪に入っていくということを経た上での話なのではないでしょうか。

現代まで、地域活性化の指標として経済活動の規模を採用することは当たり前と考えられてきましたが、地域住民の生活の真の質は、経済活動では測れない領域に存在しているといっよいでしょう。経済活動を当たり前のように指標として使っていたために、そのような地方の活力のありかそのものが統計上に表れない不可視な存在となっていたのです。

経済活動では測れない地域の活力が存在し、それがいまだに活きているということは、資本主義システムに組み込まれていない社会が、日本には豊富に残っているということを示しています。その活力の原理は、独占を許さず分け合うこと、どんなに小さくとも小規模な労働を認めること、貨幣価値を通した価値の平準化にこだわらないことなどです。

ここまで、考えたところで、ふと気付くことがあります。それは、これまでの経済指標に表れない地域活力の真の姿が、近年のニューエコノミー、シェアリングエコノミー、サイクルエコノミーなどと呼ばれる新しい潮流と響き合う部分が大きいのではないかということです。

給与所得による生活が当たり前であり、それ以外は考えにくい人たちには見えないかもしれませんが、地方の価値は、経済活動の外にあるのです。

その価値の姿を、社会の仕組みとして描ききることで地域を守っていく必要があると考えています。
 

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『intelligence3.0』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。