プロムナード・コンサートのウッド卿、クイーンズ・ホールのウッド卿といえばロンドンっ子の知らぬ者のない著名な存在であった。環は山崎書記官の激励に力を得てさっそくにウッド宛の手紙をしたためた。

返事を待つが念の為もう一度書きなおす。結果は同じで返事はなかった。家計の算段もたたず、環は日本を遠く離れて初めて孤独感を味わった。(※1)へンリー・ウッドへの手紙のことは夫にも内緒にしていた。この年まで常に人のトップに立って歌ってきた環は自他ともに日本声楽界の第一人者としてのプライドがあった。

万一、ウッドに駄目の烙印を押されでもしたらという不安も手伝って、夫にもそれを知られたくなかったのである。ウッドに認められなくても、自分一人の胸に収めておけばよい、帰国後、笑いのタネになることだけは堪えがたい屈辱と思われた。環は三浦の気持を知りながら黙っていることに良心の痛みを覚え、思案の末ことの次第を打明ける。

ウッド卿ともなれば、時勢が時勢だけに音楽のこととはいえ誤解されるような面倒は避けるだろう。格式を重んじる国のこと、御前演奏について詳しく書いてもう一度頼みなおしたらどうだろう。

それでも見込みがなければ大使にお願いする以外にはない、とする三浦の判断に環は安堵する。音楽学校に在学中、明治天皇、皇后の御前演奏で、メンデルスゾーンの「ジェルサレム」を独唱したこと、その折の皇后の励ましに感動し、生涯を音楽に捧げるべく心に誓い今日まで精進してきたこと。

また一九○六年三月、ヴィクトリア女王王子コンノート殿下御来臨の折、選ばれて御前演奏をし、その折御署名入りの殿下の写真を大切に所持していること。貴国で音楽の修業をいたしたく、レパートリーの一曲リゴレットのアリア”慕わしき御名”につき、是非とも御教示ありたいと、前回、前々回より二倍、三倍の時間をかけて手紙を認める。

それから間もなくウッド卿からの手紙が配達された。環の自伝にはこの時の下宿のおかみとのやりとりが面白く語られている。ウッドからの文面には、来週火曜日、伴奏者を連れてクイーンズ・ホールに来てください。といった簡単なものであった。

バートン夫人も音楽生のための下宿を開いている手前伴奏者の心配をする。しかしそれが小学校唱歌の伴奏程度の人なので思案しているところへ、幸運にも三浦がギリシヤの医師オーゴリと出会う。彼はお茶の会に三浦夫妻を誘った。

この席に昔、ドイツで活躍したオペラシンガーのアンナ・レクーナも招かれていてこの縁で彼女が伴奏者を引受けたとしている。(21)茶会の席上オーゴリ夫妻からアンナ・レクーナを紹介された環は相手がオペラシンガーときいて「伴奏者がなくて困っている」と、彼女に訴えた。

クイーンズ・ホールはその時プロムナード・コンサートのシーズンであったが午後のホールは、電灯も消え帝劇の客席を連想していた環には妙に森閑としてうす暗く感じられた。東京音楽学校や帝劇歌劇部でテストをする立場にあった環が今は試される立場であった。サー・へンリー・ウッドはその時四十五歳、イギリス上流社会の紳士のマナーを以て、二人の婦人をホールに招き入れた。

客席の中央にウッドは立止まり、やや振返ってアンナ・レクーナにステージのピアノを指さした。環はレクナーについてステージに上った。レクーナは環の持参した楽譜を譜面台にひろげた。

ピアノの前奏に続いて環の澄んだ声がステージの一点からホールに拡がる。環は心配していた声の疲れが完全に癒えているのを感じた。

消えぬよろこびとはのあこがれ

むずかしいカデンツァも無理がなかった。

胸にいつまでも抱いていつくしみ幕う御名よ(22)

終りのカデンツァもよくうたえた。うたい終った環はホールの空気が一瞬自分をすっぽりと包んだかとも思える心地よさを感じた。ピアノがかすかに余韻を残して消えてゆく。レクーナは楽譜を閉じて環を見ていた。環はその好意と信頼にいい知れぬ喜びを感じた。

サー・ヘンリー・ウッドは、はじめは無関心と思えるほどの態度で客席の間を行きつ戻りつしていたが、いつしかステージに上っていた。環はウッドの握手に涙が溢れ、喜びで胸がいっばいであった。と自伝は語る

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。