友人の兄貴の弟の同級生は、ボロ雑巾のように敗れた。中坊に叩きのめされた友人の兄貴の弟の同級生は、本格的なテニスを続ける事をあっさり断念して、一般企業へ就職した。

「柳瀬高校へ行けよ!」

全国大会優勝常連の名門校だ。周囲の一致した大真面目な意見だった。中井は固辞した。理由は、全寮制で三年間坊主頭だから、だった。

中井は普通の高校の普通のテニス部(一応硬式)に入部し、普通の三年間を過ごす。天才スポーツ選手によくある事だが、学業成績もトップクラスだったので、その後は慶聖大学にあっさり合格した。

テニスは勿論大学でも継続していたが、必死に、とか、死に物狂いで、とかいう言葉は中井には無縁だった。

一年生で、テニス部トップになった。中井は天狗になっていた。無理もない。慶聖大学テニス部で、中井を実力で負かす者など、誰もいなかったのだから。

中井の生意気な態度はこの頃から形成されていった。これによって慶聖大学テニス部の雰囲気は最悪になった。

この状況を打破すべく立ち上がったのが、顧問『伊藤虎雄』だった。伊藤は賭けに出た。いきなり中井を、プロも参加するオープン大会に出場させたのだ。

大阪で行われる、その名も『大阪オープン』だ。大会には、柳瀬高校を卒業し、中井と同学年の『竹岡佳造』が参戦していた。竹岡は大学テニスには目もくれず、高校を卒業してすぐプロの世界に入った。

二人は二回戦で対戦する。才能、という観点からすれば、あるいは中井の方が上だったかもしれない。だが、結果からすると、中井の完敗だった。中井は竹岡の、愚鈍、とも呼べるテニスに屈服した。

竹岡のテニスは至極簡単だった。相手が百発打ってきたならば、百一発打ち返せば良い、千発打ってきたならば、千一発打ち返せば良い、というテニス哲学だった。

そのプレースタイルは、試合開始から終了まで一貫していた。捨てるポイントなど一つも無かった。中井の様な天才肌のプレーヤーにとって、最もやりにくい相手だった。

中井がリードしたのは最初の三ゲームだけだった。ファーストセット終了間際にブレイクバックされ、追いつかれると、その後逆転された。

セカンドセットは先にブレイクされ、中井はメンタルのコントロールができずそのままズルズルと敗戦した。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『センターコート(上)』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。