優輝と慶三

マートルの日常というのは、季節や曜日に影響されることなく、まったりとした空気が流れている状態だ。インターネットでのホームページ公開をしていないので、来客は近隣の住人がほとんどである。

タウン誌の広告程度の広報活動ではPR不足は否めないが、逆に想定外の一見客が増えすぎても対応が追いつかない。現状として、メニューを絞った小さな店は、店主の牧森未代がひとりでまかなえるぎりぎりの環境でもある。逆にそれが、のんびりと落ち着ける雰囲気として受け入れられているのか、今年になってから徐々に客数が増えていた。

「おめえ、時給以外にも、何かを求めたりしてねえよな」それでも年に数回は、風変わりな客が現れたり、団体客が押し寄せたりして、平穏な日常に切り込まれることもある。今日は珍しく非日常の巡りみたいで、ランチタイムを控えたカウンターには、すでに三人の常連客が揃っていた。

「ど、どう言う意味でしょうか。その……何かって」今日からアルバイトに来た大学生の永松悟ながまつさとるは、木村の眼光に怯みながら答えた。「非正規雇用とはいえ、自分なりに社会に貢献したいなら、他の選択肢もいっぱいあったよな。おい。なんでここを選んだ?」木村ほどではないが、原田の質問も鋭かった。

「お前ら、いきなり核心か? もっと順序立てて聞いてやれよ。戸惑ってるじゃねえか。なあ兄ちゃん、学生だってな。出身と家族構成はどうなってるんだ?」三人の中で一番柔和な谷山は、穏やかな口調で個人情報を問いただした。

見た目もふたりとは違ってひょろっと背が高く、理論派というか屁理屈が多いのが特徴だ。「……これは面接なのですか? 僕はもう、採用になったのだと思っていたのですが」

「採用は採用さ。未代が決めたんだからな。ただしおめえの魂胆まで、未代は聞いてねえはずだ。そいつを確かめるのが、俺たちの仕事なんだよ」一番近い位置に座っている木村は、値踏みするように足元から永松を見上げていった。

「魂胆って、あの……あなた方はこの店の関係者なのですか?」客だよ、と三人は揃ってない声で答えた。永松は彼等から放たれる殺気にも似た威圧感に押されて、目眩を起こしそうになった。

「未代が未婚のシングルマザーってのは、知ってるんだよな」胸の奥深い暗闇まで探るような谷山の視線から目を逸らした永松は、今聞いた言葉の意味がすぐには理解できなかった。この人はいきなり何を言い出すのだ。

未婚のシングルマザー? それって、あの人に子供がいるってこと ……嘘でえ……。アルバイトの面接を受けるためマートルに電話した永松は、耳に届いた誠実そうな第一声で、すぐにこの人があのボードを作製したのだと感じた。

店の外でA型に脚を広げている、メニューの説明とイラストが描かれたメッセージボード。この店の前を通るたび、どんな人がこれを描いているのだろうかと、いつも気になっていた。中に入ったことはなかったが、バイト先を探していて求人票にマートルの名前を見つけた時、すぐにボードに書かれた丁寧な文字と、季節に沿ったワンポイントのイラストを思い出したのだった。

そして指定された閉店後の時間帯に店を訪れた永松は、迎えてくれた女性の眩しすぎる笑顔に一瞬で魅せられてしまった。手作り感満載のメッセージボード。親しみやすい電話の声。そして目の前で微笑む天使。すべてが一本に繋がった時、永松の恋心は自制の網を破り捨てて一直線に走り出したのである。

あの人に子供がいるなんて、と永松は愕然となりながらも、その事実をまだ受け入れられずにいた。何かの間違いであってほしい。いやもしかして、見た目よりずっと年上だとか。まさか美魔女? まさか四十? そんな……昨日芽生えたばかりの淡い想いが、二十四時間も経たないうちに消えようとしている。

そこへ、普段通りにただいまー、と扉を開けた優輝は、店内の空気が違うことに気づいて足を止めたのだった。カウンターにはもう谷山が到着している。他に客はいない。いつもなら嬉しそうにお帰りー、と迎えてくれるはずのおじさん達が厳しく見据える先には、見知らぬ若い男が硬直して立っていた。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『小節は6月から始まる』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。