スポーツでも、コーチの言う通りにすぐ出来たら、あっという間に上手くなるはずだが、そうはいかないものだ。繰り返し練習し、ひとつずつ身に付けるしかない。生き方も同様だ。

昔、テレビでアメリカの少年院のドキュメンタリー番組を見た。日本の少年院では規律を重んじ、歩く時も隊列を組んで「イチニ、イチニ」と整列をして歩いていたが、アメリカの少年院は比較的自由だった。比較的罪の軽い人が入る少年院だったと思う。

ある時、数日掛けてみんなでヨットを操船しながら、目的地まで行く行事があったが、その途中で嵐に見舞われた。暴風雨の中、みんなで声を掛け合い、協力しながら嵐を乗り越えた。

目的地に着いたあと、インタビュアーの質問に、盗みの罪で少年院に入った少年が泣きじゃくりながら答えていた。

「みんなで協力しながら、この困難を乗り越えることが出来た。みんなで協力しながら何かを成し遂げるということは、今まで一度も経験したことのない素晴らしい経験だった。自分は今までなんてつまらない人生を送ってきたのだろうと思った。もう決してバカな盗みなんかはしない。ちゃんとした人生を生きたい」。

さすがにアメリカの更生方法は進んでいるなと感心していた。ただ本当に心に響いたのはそのあとだった。

彼が少年院を退院し、笑顔でテレビに手を振りながら去っていき、次第に見えなくなっていくころに、テレビの下のほうに、ゆっくりとテロップが流れてきた。

「彼は3ヶ月後、また盗みを働いてここに戻ってきました」。

人間は、人生は、深いなと思った。ただ、また盗みを働いてしまったけれど、彼の心の中での反省はもっと深くなっているのだろうと感じられた。

人間は簡単には変われない。喧嘩をして反省し、「もう絶対に怒らない」と決めても、翌日腹が立つのが人間だ。3回怒ってしまうところを、2回、1回と減らしていければいいのだ。それが成長というものだと思う。

「生きる」のは難しい。人生は深淵だ。それゆえ面白い。若い時はよく「生きる意味」について考えた。でも、いくら考えても「これだ!」という答えにたどりつけなかった。

人生に意味がないのであれば、いつ死んでも構わないはずだ。でも死ねない。死にたくない。「生きる」ことに何か大きな意味があるはずだ。

そしてある時、人生とは「生きる意味」を問うのではなく、生きていく中で「生きる意味」を問われているのではないかと思った。

愛の意味は頭で考えてわかるものでもない。滝に打たれてわかるものでもないと思う。愛の意味は「愛する」ことによって、次第にわかってくる。人生の意味も頭で考えるのではなく、自分らしく「生きる」ことによってわかってくるのだ。

何があったかが人生ではなく、どういう気持ちで生きてきたかが人生だ。自分の想いを人生の中で実現していくことによって、人生の意味を感じて、理解していくのだ。

そうか! 人生は「真理の探求」ではなく、自分の人生を意味のあるものにしていく「詩の創造」なのだ。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『窓ガラスが鏡に変わるとき-文庫版-』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。