我が青春の日々

団塊世代は日本経済の高度成長のピークを過ぎた頃に社会に出ました。1970年(昭和45年)ごろは土曜日も休みでなく、半ドン(午後から休み)か終日勤務の企業がほとんどでした。

我々の時代の大学卒初任給は月4万円ぐらいでした。トヨタカローラや日産サニーがファミリカーとして不動の地位を築き、カラーテレビが家庭に普及しはじめ、大阪千里丘陵では昭和45年3月から日本万国博覧会が開催されました。

日本製品は製造すれば飛ぶように売れる時代で価格も安くて品質も良く技術力もある「メイドインジャパン」が世界に羽ばたく時代でした。

日本の商社マンはアマゾンやアフリカのジャングル奥地まで飛んで日本製品の販売に日夜努力し、日本製品は世界中を制覇しました。そして石油ショックやニクソン・ショックなどの幾多の経済危機を乗り越えて日本経済はバブル経済が崩壊するまで戦後から約45年間成長を続けました。

その間日本企業はZD運動やTQC活動などで社員教育を実施しモラルやモチベーションアップに努めました。そして日本は高品質の製品を提供し、コストダウンをすることで価格競争に勝ち、製造業で世界のトップクラスの地位を維持してきました。

しかし、1ドル360円の固定相場の時代から1973年(昭和48年)2月の円変動相場制への移行は輸出産業国日本にとっては大きな試練でした。また前年の田中内閣発足で首相が説く日本列島改造論により全国各地で地価の高騰がありました。

以下、ウィキペディア「オイルショック」から引用します。

「その年の10月に第4次中東戦争が勃発し、これを受け10月16日に石油輸出国機構(OPEC)加盟産油国のうちペルシャ湾岸の6ヵ国が、原油公示価格を1バレル/3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表しました。

その翌日にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油生産の段階的削減(石油戦略)を決定し、アラブ石油輸出国機構諸国は10月20日以降イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定しました。

さらに12月23日には石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシャ湾岸の産油6ヵ国が、1974年(昭和49年)1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると決定しました。

この一連の原油価格の高騰と供給のひっ迫によって世界の経済が混乱する事態、つまり第一次石油危機(オイルショック)が起こりました」

原油調達のほとんどを海外に依存していた日本は、原油の大幅な価格上昇と原油が輸入できなくなるのではという危機感から大パニックに陥りました。

電力不足を懸念して政府の声掛かりで深夜放送も自粛し、ネオンサインも深夜は消灯し、ガソリンスタンドもガソリンや軽油を求める車が長蛇の列を作り、国民すべてが耐久生活を強いられました。

また、大阪千里方面のトイレットペーパーの品薄が発端となって、全国でいろいろな日用品の品切れが続出し、ものは買い占めで市場からなくなりました。

原油価格の高騰により、石油化学製品の価格が大幅に値上げされたこと、そして需要と供給のバランスが崩れて品不足が発生したことで狂乱物価となりました。

品不足が沈静化すれば、市場には過剰感が高まってあらゆる品が在庫の山積みです。その在庫のために製造会社は生産調整し、ひまなため各企業は社員総出で工場の塀や設備のペンキ塗りをしました。

これで日本経済の高度成長は終わって、低成長時代にはいるといわれました。

日本は1978年(昭和53年)に日中平和友好条約を締結し、1979年(昭和54年)には第二次オイルショックを経験しました。その後はバブル経済に突入し、国民みんなが、株価や土地価格に一喜一憂し、また多くの企業が本業で細々と着実に利益をあげるのではなく、所有する不動産や金融資産を運用して大きな利潤を得る財テクに走りました。

この時代には団塊世代は40歳前後の働き盛りで、社会の中核を担っていました。そしてバブルが完全崩壊しました。

年号も長い昭和が終わり平成の時代に移り、バブルが弾けると悲壮感のみ漂い、先の見えない真っ暗闇の日本経済に突入です。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『未来なに彩』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。