(中略)高麗時代の科挙には、先にあげた製述科、明経科の文科のほかに明法業、明算業、医業、卜業(占星術的な天文学)、地理業などの実務および技術系の雑科もあったが、応試者の身分は製述および明経科に比べて低かった。(106ページ)(中略)科挙の受験資格は五逆、五賤、不忠、不孝の者および賎民の居住区である部曲ブコクヒャンの出身者を除いて、すべての良民に解放されていた。(106ページ)

(中略)ところが官吏登用のための文科や雑科、さらには僧侶を格付けするための僧科まであったのに、武科が欠落している。(107ページ)

(中略)したがって武班職は世襲的な蔭叙による任命か、戦争の時の武功を立てた軍人の抜擢によらざるをえない。それは武班に対する文班の高慢と蔑視の原因となった。(107ページ)

(中略)「尚文軽武」の文治政治は、高麗後の朝鮮王朝の末期までつづいた。だから自主的軍事力の建設をおろそかにし、中国諸王朝との事大外交に依存して国家の安全を守ろうとする他力本願的な弊風が近代に至るまで尾をひいた。(108ページ)]

この『朝鮮儒教の二千年』が指摘している、「科挙制度」とその結果としての「尚文軽武」の政治は、その後の朝鮮の歴史を決定的に支配しました。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『韓国の歴史を直視する 朝鮮通史から問う反日の矛盾』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。