第二章 忠臣蔵とは何か

時代背景と事件の伝承

時代背景

大名崩御に際して執行された主な殉死の例を挙げてみると、

初代奥州仙台城主伊達正宗、寛永十三年(一六三六)没。五人の陪臣を含む殉死者二十人。

初代肥後熊本城主細川忠利、寛永十八年(一六四一)没。殉死者十九人。

初代肥前佐賀城主鍋島勝茂、明暦三年(一六五七)没。殉死者二十六人。

このように、江戸時代初期に見られる大名の崩御には多くの殉死者が出ている。殉死者の墓は主人の墓域内に築かれ顕彰碑なども建立され、その遺徳は後世にまで伝えられ、殉死者は死後においても手厚くもてなされている。しかし、徳川家康は殉死を全く評価せず、生前から殉死は意味の無いものと公言していたことから、元和二年(一六一六)、家康崩御に際しては殉死者を一人も出すことがなかった。

じつは、殉死はそれほど一般的な慣習ではなく、古墳時代の有力者に殉葬の例が認められるが、当時の殉死は自らの意思ではなく、奴婢(奴隷に相当)らが生贄のごとく強制的に殉死させられていたと言われており、その残酷さから早い段階で廃止され、以降日本国内において殉死はほとんど見られなくなり、戦国時代においてさえも殉死はほとんど無かったとされている。

一般に殉死者は生前主人に重用された側近者に多く、当然要職を担っていた重臣でもあったことから、多くの殉死者が出ることで大名家は急激な代替わりが進み、組織の機能を大きく後退させてしまうことにもなりかねず、殉死には大名家の弱体化が進む危険を孕んでいた。

第四代将軍徳川家綱は寛文三年(一六六三)五月二十三日、公布済みの『武家諸法度』を改訂するに際して、別紙にて『殉死禁止令』が口頭伝達されている。それが次の通りである。

殉死は古より不義無益の事也と誡め置くといえども、仰せ出されこれなき故に、近年追腹の者余多これあり候、向後、さようの存念これある者には、常々その主人より殉死仕らず候様に、堅く申し含むべく候、もし以来これあるにおいては、その亡主不覚の越度たるべし、跡目の息も、抑留せしめざる儀、不届きに思し召さるべき者也

このように、今後殉死の行為が認められた場合、殉死者の遺族に対しても厳しい罰則が処せられることになる。続いて第五代徳川綱吉の時代に入ると、人間よりも犬や馬を大事にするという世界の歴史にも例を見ない悪法『生類憐れみの令』が施行され庶民は苦しむことになる。

『殉死禁止令』と『生類憐れみの令』は全く性質の違うものではあるが、この二つのお触れの施行を境に、それまで武家社会を支えていた武断政治は影を潜め、幕府の運営については恒久的な安定を担う文治政治へと移行していくことになる。

赤穂浪士の場合に当て嵌めてみると、浪士らが討入り直前に親族や知人などに送った暇乞状の中に「一家の面目」「先祖之流を清く致事」「武士の道」「武士の本意」などの文言が見られる。

主家は改易し、すでに家臣としての一家の存続継承自体失われていたにもかかわらず、代々続く家長としての立場を重んじる者や、武士の生き様を体現しようとする者など、浪士らにとっては主君の仇討ちが最大の目的であったとされているが、残された書簡などによると彼らはすでに自らの死を受け入れており、討入りには殉死としての側面も多分に含まれていたと言える。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。