「なあ、おまえ、この場所からその先生の予定地が見えるぞ。その先生がなぜまた引っ越してまで開業し直すのかはわからないが、おそらく前の土地でうまくいかなくなったからだと思う。おまえはやりたいようにやればいいかもしれない。おまえは頑張って、その人に勝つかもしれない。でも、それでその人をまたやめさせて、それがおまえの人生なのか」

父にそう言われた時、誰にも邪魔させないという不退転の気持ちがガラガラと崩れ、この場所での開業をやめようと決めたのです。しかしその後、開業を予定していた先生が病気になって亡くなったため、私は現在のこの地で開業できたのです。

二つ目は、もう40年以上前ですが、織田の瓦工場をしている父の知り合いが大きな借金をかかえて倒産しそうになった時のことです。当時は倒産すればその家族が悲惨な目にあうことは目に見えていたため、私の父が周囲に働きかけて共同出資者を募り、借金の返済に充てるということをしました。

しかしその瓦工場が再開することはなく、儲けにならないと思った人々は去り、結局父一人が責任を負う形になってしまいました。今でもその工場のボロボロになった倉庫が残っています。

しかし世の中にはいろんな人がいるもので、つい最近になって、親戚の人があの時出資したお金をまだ返してもらっていないと主張してきました。その親戚親子は元々、いろいろなことで私にとってもトラブルのもとになっていました。そのためあまり付き合いたくなかったので、これを機に縁を切ってはと強くすすめたのですが、父はそのようなことはしませんでした。もちろん父も言いたいことはあったと思いますが、今までと変わりない対応をしたのでした。

三つ目は、御堂に関するエピソードです。私は全然知らなかったのですが、前述の元瓦工場の倉庫に十数年前からずっと、どこかで譲り受けたのか、それとも購入したのか、御堂を保存していたのです。

丹生郡(現在の越前町)の中で一番高い六所山の頂上にはかつて御堂があったのですが、今は聖観音の石像だけが残っているので父は御堂を再建したいと考えていました。そしてその思いを越知山泰澄塾の人たちがくみ取って山に御堂を運ぶのを手伝ってくださり、父が施主になって再建したのです。